日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

9/24

9/24 「自分は損をしているのか」    マタイ20:1~20

「ぼく、おじいちゃんから○○をもらった」と聞いたら普通は何と答えるだろうか。僕の感覚だと「いいなぁ」とか「すごーい見せて見せて―」とかそんな感じだろうか。だけど、最近ちょっと驚いたこと、それは最初の言葉に「ずるい!」と答える子がいるのだ。羨ましいという感情はわかる。だけれどもそれは「ずる」をして手に入れたものだろうか。そのおじいちゃんは、孫にプレゼントをあげただけで、「ずるい」と言った子は赤の他人なわけだからそのおじいちゃんからもらうチャンスはない。「ずるい」と言った子は損をしているわけじゃない。他にも努力してできるようになったことに対して「ずるい」と言っている子もいる。努力して手に入れた能力に「ずるい」も何もなかろうにと思うのだが。いや、子どもだけじゃなく大人もそういう言葉づかいをすることがあるのを聞いたことがあって驚いている。多分「うらやましい」「いいな」という言葉を「ずるい」と表現するようになっているからなんだろう。でも、ものすごく違和感が残る。だって、それを手に入れた人はなんの悪いこともしていないではないか。「ずる」というのは、横入りして何かを手に入れるとかそういう不正を感じさせる言葉で、羨望の感情をおきかえる言葉じゃない気がする。
 今日のイエスのたとえ話もそうだ。ぶどう園の労働者たちは実は誰も損はしていない。全員が契約通りにもらっているわけで、みんなそれぞれ対価を受けたわけだ。少なくとも主人の言う通り「不正」なことはそこでは行われていない。今の社会もそうなっている。働くことが難しい人たち、例えばお年寄りだったり病気の人だったり障がいを抱えている人にたいして、社会が手厚く保障するのは当然だと誰もが思う。わたしたちだっていつなんどきお世話になるかわからない。たまに話題になる生活保護の問題も「不正受給」なのが問題なのであって、生活保護という制度そのものに「不正」はない
 最初の「ずるい」という言葉遣いだが、それを続けていると何となく「自分は損をしている」気になってくる。でも実は損をしているわけじゃない。生まれた場所や環境は、その人に責任があるわけではないからだ。才能だってそうだ。僕はウサイン・ボルトみたいに早く走れるわけじゃない。彼のことを「すごい」とは思うし「早く走れて羨ましいな」とは思うけど「ずるい」とは思わない。彼は才能もあったのだろうが努力でそれを手に入れたのははっきりしている。ぶどう園の労働者たちも何となく「損をしている」気になっている。この「損をしている」という感情に気をつけた方が良いように思う。それを持っているだけで、他人を羨む「羨望」のまなざしが、「嫉妬」になる。するとだんだんと神さまの方向から逸れていくのだ。他人が何かを得ているのを見て、自分が損しているような気になる、というのは少しまずい状況だと思う。気が付いていない状況でそうなっているかもしれない子どもたちを見て、自分の感情もきちんと点検したいと思う今日この頃なのです。

9/17

9/17 「赦すとは何か」  マタイ18:21~35

「ごめんね」「いいよ」 幼稚園で毎日聞くことのできる会話です。ある子どもが別の子を叩いてしまって、それに対して謝らせ、赦させる。「悪いことには謝らなくてはいけない」そしてそれは「赦した方が良い」ということを教える、教育的な配慮です。でも一方でこうやって子ども同士のけんかを治めるとき、よくよく話を聞いたり状況を見ていたりしないと、実はその別の子が突然おもちゃをひったくった、というような原因を見逃してしまい。最初の子が不満をためる結果になることもある。先生たちの腕の見せ所とも言えますかね。
 大人の社会もこのくらい単純だったらいいのだけれども、残念ながらそうはいきません。赦すというのが難しいことはいくらでもあります。例えば殺人事件の被害者家族だったらどうか。「赦しなさい」と簡単に周囲が言える状況ではありません。またDVで離婚した人が、加害者を「赦して」また一緒になるということが考えられますか。決してそんなことは勧められないですよね。でも意外と多くの教会外の人は「キリスト教の人は何でも赦しちゃう」し「赦して当たり前」だと思っていたりします。「牧師の癖に赦さないんですか」とよく言われます。しかも、割と短時間で成果を求める現代の悪癖だろうか、昨日おこった出来事について「今日赦せ」と要求してしまったりもします。これはこじれて当たり前です。
 「赦す」ってなんだろう。日本語の辞書を紐解けば「罪や過失をとがめだてしないこと」とあります。しかし究極的に言えば、教会において「赦す」ことができるのは神さまのみです。牧師だろうと信徒だろうと、それを「代行」しているだけのはずなのです。今日のイエスのたとえ話で表現されているのは「神さま」とわたしたちの関係のことです。そして神さまは常に「赦して」いるのだから、わたしたち一人一人は生きているのです。それは忘れてはいけないことです。
 では、わたしたちはどうすればいいのでしょう。まずは自分と神さまとの関係をもう一度思い出すことです。そして、わたしたち一人一人が「神さまの赦しを代行している」ことを忘れないことです。もう一つ大切なのは、「赦せない」と思うことがあってもいいのです。ただし、その人と「交わらない」のではなく、例えば教会の中において「兄弟」として振舞うことです。なおかつ大事なのは、それを周りに要求しないこと。そして時間がかかることを知ることです。神さまの目は長いし、裁くのは神さまですから。

9/10

9/10 「証人の大切さ」   マタイ18:15~20

 忠告をしに行く時、他に一人か二人を連れていきなさいというイエスの言葉は、現代に生きるわたしたちからすると「ちょっと変だな」と思えます。一般的に「ほめるときはみんなの前で、忠告したり叱責する時は一対一で」と言われますから。ではなぜ、イエスはそのように言ったのでしょう。
 イエスの時代、録音やら写真やら、客観的な証拠という考え方はあまりありませんでした。何が一番大事だったかというと「証言」なんですね。社会的に認められた人物が「こうだ」と言えば、それがそのまま証拠となったわけです。十戒にも「偽証するな」とありますが、「偽証」というのがどれくらい重い罪になるかわかるでしょう。「証言」がそのまま「証拠」なわけですから、「偽証」すればいくらでも相手を陥れることが可能です。一対一で話した場合「証拠」はありませんよね。そうなると言い分が食い違っても確かめるすべがない。これでは困ってしまいます。だからこそイエスは「一人か二人」連れていきなさい、と言ったのです。連れて行かれた一人か二人は「忠告する人の味方」というわけではなく、あくまで「客観的な証人」としてその場にいるわけです。今でこそ録音でもしておけばいいのですが、そういうモノのなかった時代です。偽証を防ぐためにも有効な手段だったでしょう。また、大切なのは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」とイエスが最後に言っていることです。「忠告する人」だけでなく「忠告される人」もその交わりの中にあると考えながら「証人」も一緒にいるとき、そこにイエスも共にいるのです。「忠告する場」はイエスがいる場所でもあります。「忠告しに行く」という時、そういう場所の設定はとても大切です。ここで一番難しいのは「証人」かもしれません。なぜならば「証人」の役割は、その場で何が起こったのかを客観的に「証する」ことだからです。わたしたちはどうしても、誰かの味方をしたくなってしまいますが、そうではなく、あくまで「第三者」として関わるというのも、時として大切なのではないかと思うのです。

9/3

9/3 「神さまファースト」   マタイ16:21~28

 「退けサタン」とイエスがペトロに言い放つ今日の福音書。とても厳しく感じます。「あれだけあなたについて行ったのだから、そんな言い方はないでしょう」と思わずイエスに言って、自分も「退けサタン」と言われてしまいそうです。ペトロだって、イエスのことを考えているからこそ「そんなことがあってはなりません」と諌めようとしたので、悪意があったわけではないでしょう。でも、イエスは「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言うのです。
 教会というのは「人間の集まり」です。ですからそこに来ている人間同士の関係が、時折神さまとの関係よりも重要視されることがあります。また、教会を離れるのは神さまとの関係が途切れるよりも、人間同士の関係に疲れて離れることが多いのでしょう。ですから必然的に人間同士の関係の調整のために配慮をすることが必須です。してもしてもし足りないんですけどね。
 いつもこの箇所を読むたびにイエスに問われているような気がします。「お前は人間のことばかり考えすぎて、神さまのことを忘れていないか」と。人間同士の関係の間で走り回って、神さまに祈ることを忘れていないか、いや日々の祈りですらままならない状況に陥っているのに、と考え込んでしまいます。
 教会は「人間の集まり」ですが、「神さまを信じる人」の「神さまが一番という人」の集まりです。どこかの大統領じゃないですが「神さまファースト」なはずなんです。そこに周りの人間の行動や考え方が入り込む余地はないはずです。それぞれに考え方が違っても、それが「神さまファースト」な限り許容範囲です。でもわたしたちは「人間関係ファースト」にいつの間にかなってしまうのです。
 それを解くのは「祈り」によってのみです。毎日祈り、聖書を読むことです。教会の礼拝に毎週足を運ぶこともその一つです。毎日、自分と神さまとの関係を何よりもまず大事にするのが「神さまファースト」です。でも、わたしたちは弱くてすぐにそれを忘れてしまうので、そのために教会で礼拝を一緒にささげてそこに立ち戻る、それが大切なのです。

8/27

8/27 「教会とは何か」   マタイ16:13~20

イエスはよく「わたしは誰か」と弟子たちに問いかけています。今日の福音書でも、イエスが弟子たちに問いかけ、それに答えたペテロに「あなたの岩の上にわたしの教会を建てる」と答えています。ペテロとは「岩」の意味であり、この箇所こそが、ローマ法王がイエスから天の国の鍵を引き継いだと言われる所以です。(ペテロが初代ローマ法王とされています)もちろん「教会」こそが天の国の鍵を引き継いでいるとも解釈できますから、すべての教会が天の国の鍵を引き継ぎ、地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれるとも言えるでしょう。
 ところでみなさん「教会」ってなんだと思いますか。よく、こういった建物のことを「教会」と言いますね。地図や年鑑なんかにもそう書いてあります。でも「教会」というのは、この建物のことではありません。この建物は「礼拝堂」です。「教会」というのは「人の集まり」のことです。詳しく言うなら「神さまを信じる人の集まり」のことです。建物があってもそこに信徒が、神さまを信じる人がいなければそこは教会ではありません。
 一方で「教会」は神さまを信じる人の「任意の」「自主的な」集まりです。ですから、建物の維持も、牧師がいるかいないかも「教会に集まる人」の意志によります。教会に集まる人が「その場所が必要」と思っているのならその建物は維持されるでしょうし、そこに「牧師が必要」と思っているのならそこに牧師が派遣されます。ただし、どうしてもそれには費用が必要です。建物を維持するのには一定のお金が必要ですし、牧師を一人雇うのならそのために給与が発生します。そもそも牧師は、「自分たちのために神さまにお祈りする人をみんなでお金を出し合って雇おう」というのがその始まりした。ですから、ある意味で「教会の維持」ということに責任があるのは「牧師」ではなく「教会が自分にとって必要と思う人」、つまり「信徒」です。聖公会は「派遣制」の教会ですから人事がありますが、「招聘制」の教会ならば、自分たちにとってどんな牧師が必要かということから信徒で議論した上で、必要な人にオファーを出さなくてはいけません。当たり前のことですが、それを教会委員に丸投げして自分で考えないというわけにはいきません。少なくともこの教会は牧師一人を派遣してもらえるほど費用を負担してはいません。
 あなたにとって「教会」は人生の道筋において「必要」なものですか。それを真剣に考えなくてはならない段階に来ているでしょう。自分にとって「教会」とは何ですか。考えたうえで、それぞれの力で教会を支えていっていただければ幸いです。

8/20

8/20 「自分の仲間ではない相手にどうするのか」    ルカ9:21~28

今日の福音書はイエスがカナンの女にある意味でやり込められる物語。自分の娘を癒してほしいと願った女性をイエスは無視し、一端は断る。その理由というのは彼女が「ユダヤ人でないから」というもの。今、「外国人だから助けてやらない」と言ったら、シーフェアラーズセンターの活動は成り立たなくなってしまいます。しかしそれに対して女性が「小犬も食卓から落ちるパンくずはいただきます」(異邦人=外国人であってもこぼれた恵みをもらってもいいじゃないか)と切り返したことにより、イエスがその娘を癒す。というお話です。今日のお話のイエスの対応は好きになれないというのが正直なところです。無視するし、外国人を癒さないとはっきり言っていますし、それに外国人に「自分たちは犬」と言わせているわけですから。
 忘れがちですが、イエスはユダヤ人です。そしてイエスは別にキリスト教を作ろうとしたわけではなく「ユダヤ教を改革しようとしていた」ことは大事なポイントです。ユダヤ教というのはもともと「ユダヤ人」しか対象にしていない信仰です。納得はいかないですがある意味で当たり前の対応と言えるのかもしれません。しかし、イエスの行動は、この女性に出会ったことや他の多くの出会いを通して変化していき、後に「キリスト教」の形になっていったのです。具体的にどう変化したのかと言えば「幅広い人に神さまの救いを与える」という方向です。
 このお話から、わたしたちに読み取れることはいくつかあります。その大きな一つは「神さまの救いはキリスト教徒だけに限定されない」こと。例えば、先週わたし中高生キャンプに出かけましたが、そういったプログラム、もっと外に開かれていてもいいと思います。信徒にしか勧めないままで宣教になるでしょうか。また最近無縁仏が増えている。市の共同墓地が人気だ。そういった時に教会が貧しい人々のために受け入れることも考えられます。でもこう言うと「まず信徒が大事じゃないか」と言われるのでしょうね。これ、イエスの最初の答えと同じです。「自分たちが大事」。しかしそれからイエスはどう変えられていったのか、活動がどう広がっていったのか、自分たちの目線をどこに向けるのか、明確な答えはない問題ですが考えてみたいと思います。

8/13

8/13 「湖の上を歩いて」  ルカ9:28~36

 今日の福音書は、湖に漕ぎ出した弟子たちの船の所までイエスが歩いてやってくる場面。湖の上を歩いて近づいたイエスに対して弟子たちが怖がる様子が描かれています。湖の上を歩いてきたイエスに対して、ペトロは「わたしにも歩かせてください」と頼み、湖の上へ踏み出します。しかし、怖がったのですぐに沈みかけたと聖書には記されています。
 子どもの頃、男の子はプールで一度は「最初の足が沈む前に次の足を出せば水の上を歩けるんじゃなかろうか」という想像をして、実際にやってみたことがあるんじゃないかと思います。やってみるとわかりますが、間違いなく一歩も歩けずに沈みます。残念ながら大人になっても試す人はあまりいないでしょう。仮にその理論が正しくて、歩くことができたとしても、ものすごくせわしなく足を動かさなきゃならなさそうです。
「信仰」はよく「道」に譬えられます。「道を歩む」とか、イエスが一緒に歩いてくれるなどと表現します。そんな信仰の道に入る時、わたしたちはとても喜ばしい気持ちで歩み出します。多分誰もがかつてそうだったでしょう。ところが信仰の道は順風満帆ではありません。もしかして信仰の道に入らなければもっと楽だったんじゃないかと思ってしまうこともよくあります。普通では考えられないことも起こります。そのまま沈んじゃったほうが楽なんじゃないかと思うこともあるでしょう。
少しだけ言いましたが、そんな時に「イエスがいつも一緒に歩いてくれている」と思うのが信仰です。「主よ、助けてください」と言った時、手が差し伸べられると信じるのが信仰です。ペトロも自分が沈みかけた時すぐに、イエスに呼びかけました。そしてイエスに手を引かれてイエスと共に乗る船に戻った時、嵐も静まったのです。
わたしたちはもっともっと、イエスに頼るべきなのです。人がどうしたこうしたと頭の中で思い巡らすのではなく、イエスと話をするのです。頭の中でグルグル考えを回していると、そこにサタンがやってきて、わたしたちの考えを変な方向に向けてしまいます。一人で考えるのではなく、イエスと考えるのです。するとイエスが、わたしたちを船に引き上げてくれるでしょう。

8/6

8/6 「姿が変わる」     ルカ9:28~36

 今日8月6日は日本にとって特別な日。広島に原子爆弾が落とされた日です。そして教会にとっては「主イエス変容の日」という祝日で、山に登ったイエスの姿が変わったことを記念する日であり、さらに主日に優先される、ちょっと特別な祝日です。今日の福音書の朗読の中で、イエスの顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いたと表現されています。これが天の国に帰られたイエスの姿を表しているとされ、特別な祝日となったのです。
 古来より世界中の様々な地域で“山”は、神さまに近づく場所でした。日本でもご神体が“山”そのものだという神社は多くありますし、仏教では高野山など、例をあげればキリがないくらいです。樽前山神社もそうですね。旧約聖書の朗読は、出エジプト記からモーセが“シナイ山”で神さまと会って降りてくるところから始まります。それに伴って山に登ることそのものが信仰行として成立している場所もたくさんあります。また“山”は日常と非日常、あの世とこの世が交差する場所でもあります。日本だと恐山や月山などが有名ですね。今日の福音書でも、今いるイエスの姿が、天上での姿に変わった様子が描かれており、すでに天に上げられたモーセも登場します。イエスは福音書の中でもしばしば弟子たちを伴って、「祈るために」山に登ります。そんなこと気にしないでどこでも祈れるじゃないかと言えばそうなのかもしれませんが、イエスは節目節目で山に登っているところを見ると、やはり「山に登る」ということに特別な意味を見出していたのでしょう。山に登るというのは簡単な事ではありません。樽前山だって手軽に行ける場所であるが、簡単かと言われるとやはりそれなりの体力は必要だと答えざるを得ません。
 「神さまに祈ること」には、山に登るようなハードルが存在するのかもしれません。実際は本当にちょっとしたことで、乗り越えてしまうと大したことはないのですが、「教会に足を向ける」のもそうなのかもしれません。別に山の上や交通の不便なところにあるわけでもない。でもなんとなく日常的に足を向けるのがためらわれる。樽前山や藻岩山、円山などは体力作りのため毎日登っている人もいますが、無理してそれをやろうとは思わない。それと同じです。でも一方でわたしは思います。教会が山の上にではなく、平地にあるのだから、日常的に祈りに来ていただきたいと思うのです。そしてまた、教会というのはあの世とこの世の結びつく場所です。聖餐式の度にわたしたちは「天の全会衆」とともに祈りをささげています。今日は墓地礼拝という特別な日ですが、日常的に礼拝の中でわたしたちの記憶にある天の全会衆と出会っているのです。その人たちはいつもわたしたちを見守っています。その人たちに出会うためにも、ハードルを越えて祈りの場に日常的に足を向けてほしいのです。

7/30

7/30 「大きく育ち、膨らむモノ、どんな財産よりも価値があるモノ」 マタイ13:31~33、44~49a

 今日の福音書は、イエスの話した天の国のたとえ話を全部で5つ一緒に読んでいます。からし種のように、小さな種から大きく育ち、パン種のようにちょっとでも大きく膨らませることができるものであり、自分の財産をすべて擲ってでも手に入れる価値があるものであるとイエスは言います。しかしまた最後には、網で集められた魚のように、集められた後、しかるべき時に選別されるものであるというのです。その中でも今日は「畑の宝」と「良い真珠」のたとえに、ちょっと注目してみましょう。
 皆さんは今「どうしても欲しい」と思うものがありますか。そしてそれは自分の全てを擲ってでも手に入れたいものでしょうか。わたしたちは日々、欲しいものがあると思います。例えばこないだの暑かった時、猫もいることですし、真剣に牧師館にエアコンをつけることを考えました。でもいつも通りの夏の気温になった時、その思いはあまり強くなくなりました。また、もっと小さなことだと、お昼ご飯の前に「食べ物がほしい」と思いますが、正直なところ、何日も食べ物がなくて飢えている状況に陥ったことはありません。みなさん、真剣に自分の今までの人生を思い返してみた時に「本当に何があっても欲しい」「どうしてもそれが欲しいんだ」という気持ちになったことってあるでしょうか。「自分のすべてと引き換えにしてもよい」と思ったことってあるでしょうか。
 教会というのは、「天の国」に向かう人々が集うところであり、人々の間に「天の国」が実現するために働くところでもあり、この地上は神さまの与えた「天の国」であると話す人々が集うところでもあります。そう考えるのが「信仰」でもあります。洗礼を受けるとき、または幼児洗礼を受けた人が堅信を受けるとき、わたしたちは自分のすべてを神さまにおささげしています。いつも聖餐式中の奉献で「すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主にささげたのです」と唱えるのは、わたしたちにそのことを意識させるためです。
 でも、日々の生活の中で、わたしたちはどうしても他に気を取られるものができて、神さまのことを、教会のことを、信仰のことを二の次に追いやることがあります。「礼拝に出る」ということよりも「趣味」だったり「付き合い」だったり、様々な事を優先させることがあります。教会において神さまを見るはずが、同じ教会の仲間の振る舞いだったり、牧師だったり、あまつさえ真偽も定かではない噂話ばかりを見てしまうことがあります。明らかに「天の国」が「自分のすべてを擲ってでも手に入れたい」と願うものでなくなってしまっています。これは教区が、教会が、牧師が、自分以外の信徒が「悪い」ことなんでしょうか。何よりも、わたしが今一番、自分のすべてを擲ってでも手に入れたいのは、この教会の皆さんが、他の人の振る舞いに左右されず教会ときちんとつながって信仰を保つことです。そして、「わたしはこの週だけ来る」などと言わず、多くの人がほぼ毎週礼拝に来ることです。「天の国」を「自分のすべてを擲ってでも手に入れたいもの」と思っていただくことです。

7/23

7/23 「わが心の毒麦」   マタイ13:24~30,36~43

 今日の福音書は毒麦のたとえ。今回もイエスによる解説がついていて、やはり何を話したらいいものかという気になってしまいます。世間には良い人も悪い人もいて、悪い人だけを取り除くことはできないし、当然教会も世間のうちにあるわけだから、良い人だけではなく悪い人も所属している。終末の時、その結果が明らかになる。だからわたしたちがするのは「刈り入れ」=「終末」までそのままにしておくこと。とまぁ、こんな感じで言うのが一般的な解釈でしょう。
 しかし一方で、わたしは人を簡単に良い人、悪い人と分けてしまうことができるのだろうかと思うのです。なぜなら人というのは良いところと悪いところがあり、その評価というのは紙一重だと思えるからです。とってもゆっくりした行動の人がいます。「とっても慎重な人だ」と評価される場合もあれば「のろま」と言われてしまう場合もあるでしょう。色々な事を知っている人は「物知り」と言われることもあれば「頭でっかち」と言われてしまうこともあります。幼稚園や学校などで、ある子どもにとっては「とっても自分を見てくれる先生」であっても、別の子にとってみれば「あの子ばっかりえこひいきする先生」かもしれません。見る角度によっても、立場によっても変わるのが人の評価です。ですから、人が評価するのではなく、終末における神さまの判断にお任せするのだと言えます。またもう一つ言えることは、それぞれの人の中に「麦」と「毒麦」があるのではないかということです。
 「良い人」というのは「良いところばっかりある人」であり、「悪い人」というのが「悪いところばっかりの人」であるというのは幻想です。むしろ人の中には「良い部分」「悪い部分」があり、それぞれいつどこが表面に出ているのかわからないからです。自分が会う時はいつも怒ったような顔をしているので「怖い人」だと思っていたら、全然関係ないところで会った時にとてもニコニコと子どもと戯れていた姿にびっくりする、というようなことがあります。不良少年が捨て猫を拾っているところを見たようなものです。また、表面に出ている表情や行動からはわからない内心を持っていることもあります。わたしたちは誰もが、人と人とが出会う時、「点」と「点」でしか出会っていません。でも、それがあたかも「線」であり「面」であるかのように見えるのです。考えてみれば当たり前です。どんなに親しい人でも、その人と一緒にいる時間は1日の中の多くて4~5時間です。それも家族でもなければ毎日会うとは限らないわけですから、その相手の人生の中でも、わたしたちが知っているのはほんの「点」にしか過ぎないのです。人の中の「毒麦」という「点」が見えた時、「麦」という「点」は見えていません。もし「毒麦」の「点」ばかりが見えてしまった時、その「点」と「点」が「線」になり「面」になり、あたかもその人にあるのが「毒麦」だけの畑のように見えてしまいます。しかも、麦の間に蒔かれた毒麦のように、麦と毒麦の混じり合い方は複雑です。その「点」の表と裏を返せば評価が逆転することもあります。だからこそ、自分も含め誰もが「麦」と「毒麦」を持っていることを忘れてはならないのです。
 たとえ話の中で主人は言います。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」 育たなければわからないことはたくさんあるのです。もちろん、わたしたちはそれをどこかで決めなければ活動できないことはわかっています。それでいいのです。しかしその判断が「暫定」であることを忘れないでいたいと思うのです。「暫定」であるということは、再び「評価」することもできるということです。すべての人に対して「暫定」であるという覚悟を持つのが、信仰の大切な一端なのです。

7/16

7/16 「種まく人は誰なのか」  マタイ13:1~9,18~23

 「種をまく人のたとえ」はとても有名なたとえ話。そしてイエスによる解説までついていて、これ以上何を話せばいいのかという気になってしまうような、まさに「鉄板」のたとえ話です。「種」とは「み国の言葉」=「福音」であり、その言葉は様々な「土地」=「人」のところに蒔かれるが、その「土地」の状況によって実を結んだり結ばなかったりする。だからわたしたちも「良い土地」になりましょう。というのが一般的な解説なのでしょう。わたしたちが「良い土地」であれば、百倍もの実をつけることができます。
 しかし、実際の種まき=「福音をまく」という時大事なことが一つ出てきます。それは「誰が蒔くか」ということ。どの牧師が言ったのか、あるいはどの信徒がそれを言ったのかで全然違うのが「福音を広める」=「種まき」です。「この牧師は良い」「この牧師は悪い」あるいは「この信徒は良い」「この信徒は悪い」という話はとってもよく聞きます。実際に「良い」とされる牧師や信徒が引っ張っていくだけで、収穫が何倍にもなりますし、そうでなければつまづいてしまったり、実らなかったりしてしまいます。
 しかし一方で、それは「本当に信仰」なのだろうかと思わずにはいられません。なぜならば「良い」「悪い」に関わらず、まかれる種=「福音」は良い物だからです。良い人は良い種だけを蒔き、悪い人は悪い種だけをまく、そんなことはあり得ません。「種」=「福音」は、語るもの、伝える者の邪悪さでゆがめられたりすることはないのです。むしろ、少し足りないところのある人が語る言葉こそ大切です。なぜならパウロも言っている通り、神さまは賢い人、良いとされる人にではなく、愚かな人、足りない人にこそ「種」をまく=「福音」を語る恵みを与えられる方です。だって、見目形が良くて、素晴らしい人格で、人好きのする人の言葉だったら誰でもその言葉を聞くではありませんか。むしろわたしたちが「憎い」「嫌い」と思っている人や「愚かだ」とか「近寄りたくない」と思っている人の言葉にこそ、「福音の種」が隠されていると言った方が良いのかもしれません。
 もちろんこれは逆説的な言い方ですから、全部に当てはまるわけではありません。明らかに傷つける意味でしかない言葉もたくさんあります。しかし、自分の耳に快い言葉だけを聞くことや、自分の理想通りに振舞ってくれる牧師にだけついて行こうとするのなら、それは残念ながらよい傾向ではありません。わたしの「土地」はいいのに、「蒔く種」もしくは「蒔く人」が悪いから芽が出ない、手入れをしてくれないから伸びない、本当にそうでしょうか。聖書を読んでみればわかります。自分にとって良い事ばかりが書いてあるとは限りません。耳の痛いこと、どうしても賛同できないことも書いてありますから。でも、繰り返し聖書に触れ、祈ることこそが、わたしたちの「土地」を耕し、肥料や水を与えることになるのです。ですからわたしたちは、自分が「良い土地」でもあるために聖書を学び、祈り続けるのです。

7/9

7/9 「イエスの軛」   マタイ11:25~30

 「疲れた者、重荷を思う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスの言葉。よく教会の入り口に書けてあったりする言葉であり、かつて教会が旅人の休息所などを作る原点になった言葉です。「休む」というと、重荷を下ろして動かないということのように感じますが、イエスの言葉はこう続けられています。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」そして「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とあります。イエスにおいて「休む」というのは「軛」=「重荷」を下ろすということではないようです。イエスが「わたしの軛」というのは一体どういうことなのでしょう。
 そのヒントはやはりイエスの言葉にあります。「わたしの軛を負い」の後に続くのは「わたしに学びなさい」ということです。ただ「軛を負う」のではなく、その上に「学ぶ」のです。正直なところ、重い荷を負ったのに「学ぶ」という大変な事をするのですか? それはちょっとしんどいですイエス様、と言いたくもなってしまいますね。でも、本来、「学ぶ」ということは、受験勉強のように机にかじりついてするしんどいことではありません。新しいことを発見する喜びがあり、知らなかったことを知り、身につける喜びがあり、何より自分が少しずつ変えられていく、力をつけていくという喜びがある、喜びにあふれるものではなかったでしょうか。本当に好きな勉強はわくわくしながら続けられるものです。みなさん聖書を開いてみてどう思いますか。難しいと思いますか。簡単だと思いますか。読んでいてわくわくするような箇所はありますか。もっと意味を知りたいと思うところはありますか。多分一人一人が違う箇所だと思いますが、少し興味を持つ部分があることでしょう。そのちょっとした興味を広げていくことは大事です。また教会図書にも用意していますが、マンガ等で大雑把に話をつかむことは無駄ではありません。聖書のことだけに限らず、信仰のこと、礼拝のこと、教会の歴史のこと、わたしたちをわくわくさせる学びは数多くあります。教会で行われる様々な奉仕のことだってそうです。そうやって学ぶことによって、イエスの荷を負うことも苦にならなくなってきます。なぜなら「学ぶこと」によって自らが鍛えられるからであり、二頭立てである軛の反対側につながれているのはイエスだからです。イエスの軛というのはイエスと共につながれる軛でもあります。わたしたちが学びながら歩むとき、イエスがわたしたちの横を歩いているのです。

7/2

7/2 「平和ではなく剣を」   マタイ10:34~42

 「わたしが来たのは平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためである。」 何度聞いてもイエスのこの言葉にはドキッとさせられるし、平和を求めるイエスさまの姿とは相いれないような気がします。しかも、この剣というのは「人をその父に、娘を母に」という言葉からも家族の間での不和、つまり近しい者同士の敵対を表しているのですから穏やかではありません。イエスも実際に家族とあまり仲がいいとは言えなかったようです。でも教会のことを「神の家族」と言ったりしますから、その「神の家族」のなかで剣がぶつかり合っているのも仕方がないのかも、と思ってしまいます。
イエスは別に「絶対平和主義」「非暴力」というわけではありません。神殿の境内で商人たちの店を打ちこわし、ファリサイ派の人々と言い争います。「ダメな事にはきちんとNoを突き付ける」イエスはそういう人でした。「はっきり言っておく」ときつい言葉を相手の身分に関係なくいうこともありました。その背後には信念があり、神さまの御業をきちんと伝えなくてはならないという思いがありました。「争うこと」「剣」も、決してそれだけで悪なのではなく、その背後に何があるのかで大きく変わってきます。
日本人は「和」を大切にする民族であるとも言われます。とても尊い事ですが、一方で自分と気の合う「内輪だけ」の平和になってしまったり、「表面だけ」の平和になってしまいがちです。でもそれは「平和」ということの本質から外れています。人と人とのつながりという「横」の関係ばかりが気になってしまい、「神さまと自分」という縦のつながりを忘れている状態です。その縦のつながりは、すべての人に共通するものです。それぞれの命が神さまから与えられた尊重すべき「個」だということです。
「家族が敵となる」というイエスの言葉、これは「まず、自分と家族の関係から始めなさい」ということです。横のつながりだけ見るのではなく、まず縦の関係を意識しなさいということです。それは実際の家族だけでなく、紙の家族としての教会の中でもです。十字架は「人と人」という横のつながりだけではなく、「神さまと自分」という縦のつながりがないと成立しません。今この教会には、圧倒的に「縦」の関係が欠けているとわたしは思います。その縦の関係を意識するために大事なのは日々の祈りと、多くの人と共にする教会での礼拝です。まずそこから始めていきたい、改めてそう思うのです。