日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

12/25

12/25 贈りあう   ルカ2:1~20

クリスマスおめでとうございます。イエスさまがこの世にお生まれになった記念日のこの日、多くの人々とともに礼拝をささげることができることに感謝いたします。幼稚園でもイエスが生まれた時の様子を聖劇で演じました。
 実際に赤ちゃんが生まれると、親は大変なものです。抱っこしてほしい時も泣く、お腹が空いても泣く、うんちやおしっこ垂れても泣く、何でもかんでもとにかく泣くだけ。もちろん手のかからない子もいるそうですが、赤ちゃんは基本的に「泣く」以外のことを自分ですることはほとんどできません。「何もできない」ということは“親や周りの人が与えてくれるものをただ受けるしかできない”ということです。自分で色々できるようになるまでには結構時間がかかります。どんどん学びながらできることが増えていきます。そして自分で色々できるようになるとまず抱く欲求が、「自分が相手に何かをしてあげること」ではないかと思うんです。幼稚園の異年齢児のクラスの時、また生きづらさを抱えている同じクラスの子どもに対して、「やってあげる」「教えてあげる」と、積極的に関わっていくようになります。さらに、自分のもの、特に好きな物を他の人と分かち合うようになります。
 クリスマスは子どもたちにとってサンタさんのプレゼントのある大事な日です。もちろん大人たちもお互いにプレゼントを送り合う時でもあります。赤ちゃんのイエスに贈り物をしたことが由来のようです。それが転じて尊敬できる人、大切な人と贈り物を贈りあう日になりました。贈るというのは、送るに通じます。自分に与えられた贈り物を、自分を通して必要な人に送る、そんな意味も込められています。イエスは大人になってから「受けるよりは与える方が幸い」という言葉を残していますが、与えるためには「受けてくれる人」がいなければ与えることはできません。それが「物」であれ、「行為」であれ、受ける人がいなければ贈り物は成立しないのです。そして何より、わたしたち大人は難しく考えすぎているような気がします。だからこそ与える方が幸いであると同時に、受けることもしなければ、贈り物は回っていきません。イエスが大切にしたのは、人と人との「贈る」心が回り続けることだと思うのです。それを表すためにまず、何もできない姿でこの世に来たのです。「贈り物」というのは何も特別な物のことだけではありません。互いを思いやる心のことです。「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉は、「互いに大切にし合いなさい」ということにつながります。自分の周りの人、知っている人も知らない人をも大切にしようと思う気持ちを贈りあうことで、世界はもっと生きやすく、優しくなるでしょう。
 クリスマスは、世界中の人々が互いを大切にする日です。敵であっても大事にする日です。もちろん、無理に接触しろというわけじゃありませんよ。今日出会う人とお互いを大事にすること。それを思い出すことが、クリスマスの持つ大切な意味の一つです。

12/18

12/18 正しい人    マタイ1:18~25

いよいよクリスマスまであと1週間となりました。4本のろうそくが灯り、クリスマスを迎える準備が整っています。今日の「降臨節第4主日」は不遇な主日でもあります。降誕日が平日ですと、様々な日程の関係もあり「クリスマス礼拝」として降誕日の礼拝が行われてしまうことが多く、せっかく設定されている聖書のテキストなども生かせないことがあるからです。
 さて、そんな今日の福音書は、マタイからイエス誕生の場面。ルカによる福音書の壮大なイメージに比べると、ごくさらっと書かれている、そんなクリスマスの場面です。しかし、このマタイの話は、冷静に読んでみると「なんじゃそりゃ」と思わずにはいられません。正直なところ、ヨセフが不憫だなぁと思ってしまいます。婚約者が事前に妊娠していた。本人が身に覚えなし。とくれば真っ黒で婚約破棄確定、といったところでしょうか。現代でも弁護士の所に普通に持ち込まれそうな案件です。聖霊によって身ごもっていた、と言われて信じられるかと言われたら「ごめん無理です」以外言えそうにありません。ヨセフも「正しい人」であったので、密かに縁を切ろうとしました。「正しい人」というのは一義的に言えば、律法に忠実に従う人です。律法に従えば、マリアは石打の刑です。「密かに」しようとしたのはヨセフの優しさや人を憐れむ心であったのだと思います。それもまた「正しい人」だからといえるでしょう。ヨセフは二つの正しさの間で葛藤しながら結論を出しました。
 しかし、そのヨセフの夢の中に天使が現れ、マリアを迎え入れるように言うのです。天使は、生まれる子をイエスと名付けるように言い、その子が民を罪から救うのだと告げます。イエスという名前は「神はわたしの救い」という意味を持っています。「人々の救い」である子どもが「インマヌエル」、人々と共にいる者としてこの世に来られ、わたしたちの間で生きるのです。神さまはご自分の計画をヨセフに告げます。
 目覚めたヨセフは天使の言葉に従って、マリアを迎え入れました。神に従うことはまた、「正しさ」であるとも言えます。ヨセフは「正しい人」です。神の求める正しさは、神が起こす、起こそうとしている出来事への忠実さです。神の言葉に従ったヨセフの「正しさ」によって、救いの計画は始まったのです。
 ヨセフの持つ「律法に従うこと」「人を大切にすること」「神に従うこと」という三つの正しさは、わたしたちへの呼びかけになります。ヨセフは単純に普通の目から見るとちょっと不憫な人です。しかし、信仰の目から見るとだいぶ違ってきます。「神さまの呼びかけ」に答えるとき、一般的に考えたら「ありえない」とか「お人よしな」とか「バカな」選択肢に見えるかもしれない道を通ることがあります。でも、その道は「神に従う正しさ」であり、その道はイエスがインマヌエルとして「共に歩んでくれる」道でもあります。わたしたちは今、その途上、もしくは入り口にいるはずです。クリスマスを迎えるため、わたしたちの所に、神さまからの道が通されました。ヨセフに倣い、神さまに従う道を歩み、クリスマスを共に迎えましょう。

12/11

12/11 自分で判断する   マタイ11:2~11

 洗礼者ヨハネは牢の中から人をやって、イエスに対して「来たるべき方はあなたですか」と確かめさせます。ユダヤの人々は、救い主の到来を待ち望んでいましたから、ヨハネだって例外ではありません。しかし「道を準備する者」としては、心配です。「この人だ」と思ってはいたけれども、確証がほしい。「そうだ」と言ってくれれば自分はもっと働ける、と思ったのかもしれません。
 わたしたちの社会は「確認」「確認」また「確認」で進んでいます。会社では、みんなが「この話を聞いた」という確認のために書類にハンコをたくさん押します。それがめんどくさいからといって一人でやろうとしてもなかなかできないのはわかりきっています。もちろん、確認するのも悪い事だけではありません。進みは遅くなりますが、騙そうとしたり不正をしたりすることは、きちんと確認していれば難しくなってくるものです。
 そんなヨハネにイエスはこたえます。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。・・・・・。」 イエスのしていること、その結果がどうなっているのかを伝えなさいということです。「自分がそうだ」と言うのではなく、「それを見てあなたはどう判断しますか」という問いかけです。「目の見えない人は聞こえ、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」という状況に対して、あなたはどう判断しますか、という問いかけです。
 わたしたちは時折、いやあるいはいつもでしょうか、自分で判断しないことがあります。何かをしていてもいつも自分より上の人が判断してくれていたからでもあるのでしょう。子どものときなら「こうしよう」で済んでいたことも、そのうち「誰々ちゃんがこう言うから」という言葉が聞こえてくるようになります。子どもですら、自分で判断しなくなるのです。もちろん、自分の判断がいつも正しいわけではありませんから、人に意見を求めることもあります。でも、最終的に必要なのは自分の決断です。教会で「何かをしようと思うけどどうする」と聞いたとき、「わたしにはわからないから先生にお任せします」という言葉のなんと多い事か。「間違えたくない」「敵対したくない」ということなのかもしれません。でも、わたしたちはキリスト者として、その呪縛から解き放たれてもいいのではないかと思います。自分で見たものをどう判断するのか。聖書に書かれていることを見た時、あなたはどう思うのか。疑問があったら聞けばいいし、納得いかないことは議論してみる。それでいいのではないですか。そしてもし、あなたの心が神さまに向かうのなら、わたしは向かってほしいと思いますが、自分の決めたように振舞う、というのが大切なのです。

12/4

12/4 悔い改めにふさわしい実   マタイ3:1~13

降臨節も2週目に入りました。今日の福音書は洗礼者ヨハネの登場。ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って、人々に洗礼を授けます。
 ユダヤの人々は、救い主が来る前に預言者エリヤが再び来て、救い主の到来を告げると信じていました。聖書に記されるエリヤの姿は「毛衣を着て、腰には革帯を締めて」おり、ヨハネの姿は間違いなくエリヤを彷彿とさせるものだったでしょう。エリヤはまた、当時のイスラエルの王たちにかなり辛辣な言葉をかけたり、対立する神の預言者を殺して回ったりと、かなり攻撃的な預言者でもありましたから、洗礼者ヨハネが人々に対して「蝮の子らよ」と叫んでも、もしエリヤならば当たり前。人々は彼の言葉に耳を傾けました。そうやって洗礼を受けた人々に対してヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい実を結べ」
 「悔い改め」という言葉は、その字面から誤解されがちですが、「悔いて」「改める」ということよりも、「方向を変える」ということに重点が置かれた言葉です。どの向きに変えるのかと言えば「神さまを見る」方向です。人は神さまによって創造され、神さまの方を向いて生きてきたはずでした。しかし、だんだん、神さまだけでなく、自分の都合や周りのことが先になってしまい、神さまの方を向かない生き方になってしまいます。それを今一度神さまの方に「向き直ろう」とするのが「悔い改め」です。
 ヨハネの洗礼は、自分で「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている」と言っている通り「受けたらそれでよし」というものではなく出発点でした。そうだ、神さまの方に向き直ろうと思っても、そうしていない人はたくさんいます。「反省だけならサルでもできる」とはよくも言ったもので、思うだけなら誰でもできます。「ダイエットしよう」「今日こそ掃除しよう」「明日からランニングするんだ」などなど、やろうと思っても実際はできない、やらないことは、わたしたちにもたくさんあります。「やりたい」「そういう思いがある」と言うことと、実際に動き出すことの間にはとっても大きな隔たりがあります。だからこそヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と、わたしたちにも伝えています。
 ではその「ふさわしい実」とは何なのでしょうか。それは「悔い改め」の言葉の意味、そして、ヨハネの後から来る方、つまりイエスの言葉に隠されています。そう「神さまの方を向く」ということです。一口に「神さまの方を向く」と言っても、何をしていいのかよくわからない、そう思われるかもしれません。しかし、それはそう難しい事ではありません。人間が神さまに創造された、ということは、すべての人が「神さまによって創造された人」だと思うことです。自分の周りのすべての人々が。そして、神さまは人間が、お互いを助け合う者としてお創りになったということです。イエスはわたしたちに対して「互いに愛し合いなさい」と説きました。そう、人が周りの人一人一人を、同じ神さまに創造された人として大切にし、助け合うこと、認め合うこと。単純な事ですが、これこそが「悔い改めにふさわしい実」なのではないでしょうか。

11/27

11/27 その時、どうする   ルカ24:37~44

暦の一年の始まりよりも一足早く、教会の新しい一年が始まりました。クリスマスに向けての4週間の準備の期間が始まります。今日の福音書では、イエスが「目を覚ましていなさい」と語ります。
 変な言い方になりますが、わたしたちはいつも「日常」を生きています。毎日をある意味で必死になって生きています。大概の場合は大きな変化などありません。多少突発的な事態があったとしても、大体は想定内、起こり得ることとして行動するものです。でも、時にそうでないことがあるというのをわたしたちは思い知りました。5年半前、東北地方で起こった地震は、日常を大きく変えました。「震災前」「震災後」という呼び方もあるくらい、様々なもの、特に安全対策などが大きく変わりました。牧師としても語る言葉が大きく変化したように思います。正直なところ、この「目を覚ましていなさい」というイエスの警告に対して、「物理的に無理だよね」と考えていましたし、自分は十分注意していると思っていました。大きく日常に変化が起こることなどないと思っていました。しかしあの日を過ぎてから、この「目を覚ましていなさい」という言葉に対してのイメージはがらりと変わりました。続いて起こった熊本の震災でも、その感覚は強められました。聖書においてもノアが箱舟に入る時まで、人々は日常生活を送っていました。しかしその時、いつもと変わらない日が、ありえないくらい大きく変化したのです。そういったことは起こり得る。自分が「大丈夫だ」と思っていたものもひっくり返ることはあり得る。あれだけ「安全」だと言われていた原発も、その言葉通りではなかった・・・etc。
 しかし依然として、わたしたちが物理的にいつも「目を覚まして」いることは不可能です。死んでしまいます。比喩的にとらえて「油断しない」のだと言っても、常時気を張り詰めていることなどできないでしょう。正直なところ「その時どうするか」というのを考えておくのが関の山です。しかし、これは大事なのかもしれません。少しは落ち着いて行動することができるでしょうから。みなさんは「その時が来たら」ということを真剣に考えてみたことがありますか。考えても無駄かもしれませんが、少し考えてみませんか。マルチン・ルターは「たとえ明日が世界の終末であったとしても、自分はリンゴの木を植える」という言葉を残したとされています。(出典不明ですが)彼ほど「そうだとしても日常を送る」とわたしは言い切ることはできません。しかしそれでも、考えてみることはできます。
 クリスマスにイエスさまをわたしたちの所にお迎えする前に、「その時どうする」ということについて、真剣に思い巡らしてみてはいかがでしょうか。それもまた、信仰を深めるのにつながってくるでしょう。
 

11/20

11/20 無力な王    ルカ23:35~43

今日の降臨節前主日は、教会の一年の締めくくりの日曜日。今週で教会的には一年が終わり、新しい一年が始まります。今日の福音書の朗読はイエスの受難の場面。二人の犯罪人との十字架上の会話です。一年の締めくくりなのに、なぜこんな場面なのかと、ちょっと首をかしげたくなるようなセレクトです。
 今は用いなくなっていますが、降臨節前主日を「王なるキリストの主日」とか「キリストによる回復」と呼んでいたことがありました。イエスが王であるということですから今日のポイントは、イエスが「ユダヤ人の王」と札に書かれていたということになります。しかし、この「ユダヤ人の王」という表現は微妙です。正直なところ、この札をかけた人たちは、からかうためにしただけであったとしか考えられないからです。イエスは自分のことを「王だ」と言ったことは一度もありません。「王」と呼ばれたのは、エルサレムに迎えられた時と受難の時に笑われたことだけです。周囲が勝手にイエスを王と祭り上げ、そして一気に引き下ろした、そんな光景があっただけです。栄光の呼称ではなく屈辱の呼称です。ではなぜ、わたしたちは「イエスは王」と言うのでしょうか。
 王様ってどんなイメージでしょうか。日本だと「皇室」という呼び方をしますが、海外にも王様はいますよね。聖公会と縁の深いのはイギリス王室ですし、先日はタイ国王が亡くなったニュースが流れていました。どの王様も、敬意をもって迎えられており、「あざ笑われる」対象ではありません。イエスの生きていた時代の王は、直接統治する王でした。好かれる好かれない以前に、恐れられていたと言ってもいいかもしれません。自分の力ですべてを変える力強い王です。しかし、イエスの「王」のイメージは、あざ笑われ、自分で自分を救うことのできない無力な王です。
 わたしたちは多くの場面で「自分で何とか」しようとします。「自分のことは自分でできるようになりなさい」と昔は口を酸っぱくして言われたものですし、自力で何とかできるというのは、確かに頼りになるし力強く感じます。何でもできたらいいなぁ、と思いますが、残念ながら誰でも「できない」ことはあります。例えば「仕事はできる」けれども「家事ができない」とか、「料理はできる」けど「掃除ができない」とか色々な場面が想像できますよね。でも、わたしたちはそれをカバーし合ったり、「誰でもするだろ」と気にせずにいることができます。「できない」ということは時に強みになります。すべて一人で完結できるなら、誰かと集団でいる必要はありません。でも、イエスは人と人とが共にいること、神と人とが共にいることが大切だとわたしたちに教えます。それを最も力強く教えてくれるのが「無力な王」のイメージです。みんなで支えなくては成り立たない。わたしたちはお互いにそうである。だからこそイエスさまは、最初に無力な赤ん坊としてこの世に来られ、最後は「無力な王」としてこの世を去りました。教会の新しい一年、降臨節を迎えるとき、イエスの「王」としてのイメージを今一度新たにしたいと思います。

11/13

11/13 言葉と知恵を静かに待つ   ルカ21:5~19

テレビでニュース番組を見ていると、日本中、世界中の悲惨な出来事についての話ばかり聞こえてきて鬱々としてくることがあります。殺人、戦争・・・etc. 気が滅入って来そうです。もちろんほのぼのニュースもあるんですが、なぜかあまり印象に残らないんですよね。昔はこんな凶悪な犯罪なんか起こっていなかったじゃないか、と言いたくもなります。
 ところが統計的に見てみると、殺人などの重犯罪の数は減っており、戦後最低の水準なのだそうです。子どもの犯罪が増えているという印象もあるのですが、件数的にはむしろ減っているのです。増えているのは「報道件数」。つまり、わたしたちの目にする、耳にする件数が増えているのだそうです。
 イエスが「世の終わりはすぐには来ない」と言ってから2000年ほどの時が流れています。2000年というのは、わたしたちにとって想像もつかないような年月です。多分、100年だって一人の人で経験できるにはギリギリの年月ですから、もう十分時が流れたような気もします。でもその時はまだ来ない。いつになるんだろうと言いたくもなります。イエスはよく「目を覚ましていなさい」と言って、いつ何が起きていてもいいように準備していなさいというのですが、わたしたちは残念ながら注意深くあり続けることは難しい。避難訓練も毎年やるのですが、別の行事が優先になったりすることもあります。
 イエスは言います。「前もって弁明の準備をするまいと心に決めなさい」「言葉と知恵をあなたがたに授ける」 でも、わたしたちがいざという時あわてていると、周りのことが目に入らない、耳に入らないという状況に陥るかもしれません。それってかなりありそうなことですよね。イエスの言葉ですら耳に入らないかもしれません。というよりも、普段からイエスの言葉がなかなか入ってこないのに、ピンチの時に何をかいわんやということです。
 つまり、わたしたちのする備えはこういうことになります。普段から、神さまの言葉を心静かに聞く時間を少しだけでも作りましょうということです。子どもも一緒に、礼拝堂に来た時みたいに5分だけ目を閉じて、色々、例えば今日の出来事だったり予定だったりを思い巡らす時間をとってはいかがでしょう、ということです。その時にこそ、わたしたちのところに「イエスの言葉と知恵」がやって来てくれるのではないかと思うのです。

11/6

11/6 生きている者の神    ルカ20:27,34~38

今日の福音書は復活についての問答ということで、サドカイ派が話しかけてくる場面から始まります。しかし、今日の朗読では、真ん中のレビラート婚の部分がカットされている上に、よくよく読んでみると話が全然つながらない気がするんです。というよりも「復活」ということと、それに対するイエスの言葉「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉が何となく結びつかないような違和感がする、という感じでしょうか。
 わたしたちはイエスの「復活」を知っています。そして、わたしたち自身も時が、今日の朗読によせれば「復活の時」が来れば「復活」し、次の世で新しい命になる。いつがその時になるかはわかりませんが、今までにこれを目にしたたくさんの人たちにとっては「死後」の話です。わたしたちの生きているうちにその時が来ない限り、死んだ人の方が関係ありそうです。「生きている者の神」という言葉が、どうにもこうにも結びつかないのです。
 このことを解くカギは「すべての人は、神によって生きているからである」という言葉にあると思います。何を当たり前のことを、と思うかもしれません。しかし、イエスにとって「死」はもはや関係ないとすればどうでしょうか。イエスは十字架の死と復活によって、「死」を無意味なものとされました。わたしたちにとって、「死」は人を分かつものですが、イエスにとって「死」は意味がない、つまり「すべての人」がイエスにとっては「生きている者である」とも考えられないでしょうか。
 今日は「逝去者記念」の礼拝をしています。しかし教会の礼拝にとって、それは何も特別な事ではありません。わたしたちは聖餐にあずかる時、いつも「天の全会衆」とともに礼拝をささげています。教会の祈りは、自分だけの祈りではなく、「神によって生きている」多くの人々とともにささげるものです。彼らは今ここで、わたしたちと共に実は礼拝をささげているはずなのです。きっとイエスの目を通せば、そこにわたしたちが今記念している多くの人たち、またわたしたちも知らない「生きている」人々が見えることでしょう。それが「神によって生きている」ということの意味ではないでしょうか。
 わたしたちにとって、確かにまだまだ「死」は人を分かつものであります。しかし、キリスト者としてあるということは、たとえ分かたれた人であったとしても「神によって生きている」ということを認めることでもあります。実は目に見えないだけでわたしたちと同じ「神によって生きている者」であり、わたしたちと共にあるのです。わたしたちもいずれ、目に見えない側に行きますが、それはただ単に場所が移っただけであり、「神によって生きつつ」今ここに生きている人々と共にあるのです。今日は「記念」の礼拝です。多くの人々を思い出しつつ、その人々とともに今日の祈りをささげてまいりましょう。

10/30

10/30 プレゼント    ルカ19:1~10

今日の福音書は「ザアカイさん」のお話。日曜学校でもよく話されるとても有名なお話です。徴税人頭であった背の低い男ザアカイがイエスと出会い、変えられていくお話です。徴税人であるということは、町の人から疎まれているということであり、そんな彼に対して「今日は」ぜひあなたの家に泊まりたい、とイエスが声をかけたということは、わたしたちが思っているよりはるかに大きな出来事でした。そしてザアカイの言葉を聞いたイエスは「今日」救いがこの家を訪れた、と宣言します。
 「今日」という言葉は聖書の中で大きな意味を持っています。福音書だけでも「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」などなど、見ただけでどの場面か、わたしたちの頭にすぐに思い浮かぶことでしょう。旧約聖書においても、アブラハムが、ヤコブが、イザヤが、「今日」という言葉を強調して使っています。
 今の社会は本当に様々なもののスピードが速くなっています。メールですぐに返事が返ってくる、注文した本は2日ほどで手元に届く、港に来る船員たちも時間的な余裕がなくなっています。そんな中での「今日」、「今」というこの瞬間は、どんどんどんどん流れていってしまうかのようです。「今」起こったことについてじっくり立ち止まって考えていると「そんなんじゃ遅い」と言わんばかりに、様々なものが追い越していくようです。
 聖書のいう「今日」とは、「今この瞬間」のことです。そして「今いるこの場所で」ということです。ザアカイが自分の財産について発言したその時、その瞬間に救いが訪れました。イエスが聖書を読み上げた時、救いが訪れました。イエスと共に十字架にかけられた罪人は、確かにその時楽園に行ったのでしょう。すべて、その時、その瞬間に起こったことです。
 しかしまた、聖書のいう「今日」は、わたしたちの時間軸での「今日」「今この瞬間」でもあります。そう、わたしたちがこれらの聖書の言葉を聞く時、やはり「救い」がわたしたちにもたらされているはずなのです。スピードの速い現代社会は、わたしたちが「今この時」を感じることを妨げていることがあります。立ち止まることが許されないと感じることがあります。しかし、わたしたちは立ち止まっていいのです。その場に立って、自分にもたらされた「今この時」をしっかり感じることが大切です。英語で現在のことを「present」(プレゼント)と言います。わたしたちが「今この時」にわたしたちの所にやってきたイエス・キリストを、救いを、み言葉を、神さまを感じることができた時、その「今この時」は、わたしたちにもたらされた「プレゼント」なのです。一日の中で、様々な仕方がありますが、立ち止まって「今」を感じるひと時を持ちつつ、これからの歩みを続けたいと思うのです。

10/23

10/23  へりくだる傲慢   ルカ18:9~14

「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」イエスはたとえを話されました。なるほど、ここまであからさまだと、ものすごく鼻につくほどこのファリサイ派の男はうぬぼれているとはっきりしています。実際、気が付かないうちに「自分が○○を成し遂げた」と思っていると、その背後にある神さまの恵みに気がつけないのはよくわかります。それは誰にでも起こることですから。むしろ「自分はだいじょうぶ」と思っているほど危ないでしょうね。
 でも、このたとえ話がここに残されていることで、一つ、覆い隠されてしまっていることがあります。それは「口で」、「罪人のわたしを憐れんでください」と言いながら、「心の中で」そう思っていない、もしくは「行動で」そう振舞っていないことがある、ということです。詩篇でも「口ではなめらかな言葉を語るが/心には戦いの思い」と語られているようなことです。もしくは、謙遜が過ぎてかえって嫌味になってるとでも言いましょうか。何と言うのでしょうか「誰よりもへりくだっているのだから、わたしは偉い」というような、少し倒錯した考え方、もしくは振る舞いのことです。もしくは「へりくだっているのだから大丈夫」と思っているようなことでしょうか。イエスが「高ぶる者は低くされる」と教えられたからこその無意識であるのかもしれません。「へりくだる傲慢」とでもいえばいいのでしょうか。「高ぶる」ということには、一見へりくだって見えるような形もあるのだ、ということです。
 イエスのたとえ話の二人は、口にしていることだけでなく、振る舞いも対照的です。ファリサイ派は振る舞いも非常に敬虔に見えます。かたや徴税人はどう考えても敬虔に見えない。イエスがここで何を教えようかとしているかと言えば、「実際の心の中はどうなのか」ということに他なりません。教会に何回通っているか、礼拝での態度が適切か、奉仕活動はしているのか、献金の多寡は・・・etc。 教会の中でいわゆる「模範的な」振る舞いをしているかどうかは関係がありません。「わたしはへりくだっています」という姿勢を見せることが、本当に「心の底から」へりくだっているのかどうか、それが大切です。
と言ったところで、「自分はどうだろう」とか「自分を改めなければ」と落ち込むことはありません。なぜならば、これらのことは「人には不可能な事である」とわたしには思えるからです。わたしたちは洗礼の時に「神の助けによって」と誓いました。なぜこれを誰もが洗礼の時に誓うのか。それは、神さまも、わたしたち一人一人では無理な事だと知っているからではないでしょうか。では、わたしたちはそれが無理ならば、どのように振舞えばいいのでしょうか。
1つは「自分は間違える」と思うことです。そして自分が成し遂げたと思う時ほど「ささげる」ことです。神さまに「自分の成果」をささげることによって、それがどこからもたらされたのかを思い出すということです。そして最後に「神の助けによって」という誓いを今一度思い出すことです。「神の助けによって」「自分の力で」行った、ということが、大切なのです。

10/16

10/16  教会として祈る   ルカ18:1~9a

海外、特にヨーロッパ在住の友人から「公務員や店員の態度が悪くてイライラする」という話を聞きます。愛想が無い、時間になったら問答無用で終了、自分がわからないと思ったら受け付けないなどなど、特に外国の人に対しての対応に問題があるのだそうです。日本でも「公務員の態度が悪い」なんてニュースになったりもしますが、それ以上なのだそうです。特に郵便局員がひどいのだとか。文化もあるのでしょうが、どこでもそういったことで苦労するようです。結局繰り返し何度も行って、何とか日本への荷物を送ってもらったのだそうです。
 イエスは不正な裁判官の話で、その裁判官が「やもめがしつこいから」という理由で言うことを聞くという例を上げつつ、気を落とさずに絶えず祈り続けなければならないと説きます。神さまが必ず聞き届けてくださるからだというのです。しかしそうは言っても、祈り続けるというのはなかなか難しいものです。
 先日、教区宣教活動推進部で、各教会に「教会の夢」を出してもらおうという話になりました。もちろんすり合わせている教会もあるのでしょうが、実際に一人一人に「自分の教会が、例えば5年後にどうなっていたらいいだろう」と聞いてみると、かなり違う答えが聞けるような気がします。ある人は「もっと多くの人が教会に来るようになってるよ」と言い、ある人は「今のどうしようもない牧師が変わって、教会がよくなっている」と言い、ある人は「教会がなくなってるんじゃないか」と悲観的なことを言い、別の人は「新しい礼拝堂が建って、みんな楽しく過ごしている」と言い・・・etc、とバラバラなことを言うのではないでしょうか。わたしたちは「同じ信仰を持っている」と言いながら、一番身近な共同体である教会の中においても望んでいることが結構バラバラなものです。もちろん、これらの「願い」の中で、どれがよくてどれが悪いということはありません。しかし、わたしたちが「教会として」祈る時、一つ共通の「夢」とか「祈り」と呼べるようなものがあるのは、「教会の宣教の働き」にとって良い事ではないかと思います。
 「祈る」と言った時、その祈りは個人的な祈りもあれば普遍的な祈りもあるでしょう。そしてその中には「共同体の祈り」という心を合わせて祈る祈りも含まれています。イエスは「二人または三人が心を合わせて祈る時、わたしもそこにいる」とわたしたちに教えてくれました。個人的な祈りは、わたしたちは何度も繰り返しているのではないでしょうか。しかし「共同体としての祈り」、「誰かと心を合わせて祈る祈り」は、繰り返すのが難しい祈りでもあります。人の心はすれ違いやすいからです。それでもなお、繰り返し確認しつつ、互いに心を合わせて何度も祈る時、神さまはわたしたちに応えてくれるでしょう。これからの「教会の夢」という祈りに、一人一人が心を合わせて祈る、そんな共同体として、この教会もありたいと思うのです。