日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

3/26

3/26 「『神の業がこの人に現れんがため』という暴力」   ヨハネ9:1~13,28~38

本日の福音書はヨハネによる福音書から、ちょっと長めの朗読が行われました。生まれつき目の見えない人をイエスが癒し、そのことについて周囲の人や律法学者たちがあれこれ言う、そんなお話です。
 当時、病気や障がいというのは、「本人や先祖が何かをしたことによる報い」と考えられていました。国が滅びるのも「王が神に逆らったから」と簡単に流してしまえるくらい当時の人には普通の考え方です。今考えたらそうじゃないことはわかりますよね。まだ解明できない部分もあるのでしょうが、多くの病気の原因や治療法がわかっていますよね。
 ここ10年くらいでしょうか、発達障害などの研究が進み、今まで周りにいた「ちょっと困った人」が、もしかしたら「発達障害なのでは」と考えられるようになりました。「自分は頭がおかしいんではないか」と悩んでいた人が、気持ちの上でもだいぶ助かるようになったのです。子どものうちから診断されることも増え、自分を知ることにより、成長してから悩まなくても済むのではないかと期待されています。でもやっぱり言う人がいるんですよね。「先祖が何かをしたからだ」とか、色々です。そういう人に対してはやはり、イエスの言葉をぶつけたい。「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない」と思いますしはっきりと学問的にも言えます。しかしそれに対して「神の業がこの人に現れるためだ」というのは、いきなり受け止めるには重すぎる言葉です。
 震災の後、呆然と立ち尽くす人たちの所へお手伝いに行きました。その中でいくつもの団体が来て、特にキリスト教の団体でこのように言う人がいたんですね。「この震災は神さまの栄光がこの地に示されるためなんだ」って。正直絶句しました。その人は「だってイエスが言ってる」と言うんですが、それはこの状況で言っていい言葉ではない、ということがなぜわからないのかと思います。先ほどの子どもたちの例に戻りますけれども、その家族が言うのはいいのです。自分たちで正面から考えて言った言葉ならいいのです。それを周りの人が言うのは、それを「そう考えなさい」と強要するのはいかがなものかと思うのです。「神のため」という発言は時に暴力になりますし、この教会を、特に幼稚園を取り巻く環境の中で、「横で見ている」わたしたちが決して口に出してはならない言葉です。
 ではイエスはなぜこんなことを言ったのかと言えば、その当時の考え方に対して「因果応報的な考え方をやめろ」と言ったわけです。ゴシップ的な原因を探すのではなく、「その人は目が見えない」という実際に困っていることに立ち戻るべきだと言っているのです。わたしたちのすることは簡単です。「困っている」のなら支えてあげればよい。そして、因果応報的な言い方に対して反論すればよい。ということです。そしてこれらは、わたしたちを取り巻く様々な事に当てはまります。自分ではどうしようもないことを言われても仕方がないのです。そして、そういった「困った状況」は、しばしば「原因追究」をするよりも「その場でさっと対処」した方が有益な場合が多々あります。わたしたちは因果応報的な原因追究を止め、目の前にいる人が「困っている」というその「困り」に向き合うべきだとイエスは教えています。

3/19

3/19 信仰の成長    ヨハネ4:5~26,39~42

今日の福音書はヨハネから、サマリア人の女性とイエスとのやり取りが描かれます。自らのことを「永遠の命に至る水」と表現し、自らのことをメシアだというイエス。そして自分の境遇のことをことごとく言い当てたことから多くのサマリア人たちがイエスを信じるようになります。
 わたしたちが教会に来るようになったきっかけって何でしょうか。誰かに紹介されてきた人もいるでしょう。昔だったら「トラクト」というチラシを配っていたこともありますし、今ならホームページでしょうか。シーフェアラーズセンターのようなボランティアがきっかけのこともありますし、友人に誘われて来たり、この幼稚園のように付属の施設がきっかけのこともあるでしょうね。わたしは幼児洗礼で物心ついたときから日曜日に教会に来るのは当たり前でしたし、礼拝堂は遊び場でした。そういう方も一定数いらっしゃると思います。でも、一度部活なんかが忙しくなって、教会に足を向けなくなる時期がありました。
今日の福音書のサマリア人たちは、イエスと最初に話した女性の言葉がきっかけになってイエスに興味を持ちます。そして最後に彼らは、最初にイエスを自分たちに紹介してくれた女性に向かって「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからだ」と伝えます。
教会は今でも、こんな感じになっています。一人で来ていても、教会の中で誰かに影響されない方はほとんどいません。子どもだったら先生にでしょうか。教会の中に友人ができた方もいらっしゃるでしょう。そうやって誰かに影響され、また育てられて、信仰は徐々に強められていきます。しかし一方で、仲間たちがその関係に疲れて来なくなる、ということもありました。
信仰というのは本来自分だけのものです。誰かに影響されるものではありません。しかし、信仰の入り口において、また信仰を強める途上において、周りの信仰の仲間たちとの関係が重要です。おたがいに影響しあい、強めあっていくのです。人間が子どもから大人へ成長するようなものです。ただし、いつまでも子どものままでいるのであることはできません。自分と神さまとの関係が確立したとき、その信仰は一人前の、いわば大人の信仰になります。ぜひ、いつまでも子どものまま留まるのではなく、信仰を強めていってほしいと思います。そして、もし大人であるのならば、子どもたちを育てるために、信徒同士に限らず、教会に関わる人同士の関係が大事だとわかるでしょう。そのために、先日配った「教会の会話で気をつけたいこと」というカードがあり、わたしたちが多くの人を迎えるための手助けとなっているのです。この大斎節を、みなさんの信仰が「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからだ」という、周りに影響されない信仰へと強める期間として過ごすことができますよう、お祈りしています。

3/12

3/12 新生    ヨハネ3:1~7

 先ほど読まれたのはヨハネによる福音書からニコデモとのやり取り。「新たに生まれる」ということについて話をします。今でこそ「新たに生まれる」という言葉が、人の性格や考え方などが劇的に変わったことの比喩として使われますが、ニコデモたちには最初ピンとこなかったようですね。
 人が生まれるとき、母体に大変な苦しみがあります。創世記にも「おまえのはらみの苦しみを大きなものにする」と書かれているように、これはエデンの園で果実を食べてしまったことへの罰だとされています。また胎児も狭い産道を頭蓋骨を変形させながら出て来るわけですから、かなりの痛みを伴っていると言われています。イエスが新しい命に復活する時、十字架という苦しみがありました。また、公生涯全般で言うならば、四十日四十夜の断食と悪魔の誘惑もまた、苦しみの一つだったでしょう。「新たに生まれる」時に、残念ながら「苦しみ」は切っても切り離せないのは明白です。
 今、聖ルカ教会は生まれ変わろうとしています。「何をバカな」と思われるかもしれませんが、そのうちの一つが「聖ルカ教会の夢」である「教会と幼稚園の結びつきが深まり、愛をもって人を受け入れ、信徒とともに多くの人が礼拝に出席する教会」です。実感はないかもしれませんが、みなさんが「こうなったらいい」と思ったことを基にした目標です。「牧師が強引に決めた」のではありません。こう言った「夢」が出るということは、「わたしたちは今、この夢の通りではない」と思っていることははっきりしています。そしてその「夢」の姿になるのには、聖ルカ教会が新たに生まれ変わらなくてはならないということなのです。
 わたしたちの聖ルカ教会は「新しく教会を訪ねてきた人」「ふらっと来た人」が落ち着ける場所でしょうか。「心や体に傷を負っている人」が手足を伸ばせる場所でしょうか。残念ながら、わたしはそうではないと思います。今いる教会員ですら、「落着けない」場所だと思っている人もいることでしょう。教会が色々な人のために開かれるためには、受け入れる側のわたしたちが気をつけて「新たに生まれ」なければならない場面がたくさんあります。いつまでもお客さんではいられません。残念ながらそれにはしばしば「苦しみ」が伴います。でも、その苦しみの時は、イエスが支えて下さる時であり、一緒に歩いてくれる時です。そのための大斎節を共に歩んでいきましょう。

3/5

3/5 手段か目的か    マタイ4:1~11

 大斎節が始まりました。慎みと準備の季節です。教会ではこの期間に特別の学びをしたり、特別に祈ったり、断食をしたりして、自らの信仰を確かめ、強める習慣があります。これは特に今日の聖書の箇所と関係があり、イエスが荒れ野で四〇日間断食したこと、また悪魔から誘惑を受けたことをおぼえながら、様々な事を行います。イエスの荒れ野での誘惑の話は、必ず大斎節の初めに読むべき個所でしょう。今年はマタイから朗読されています。イエスは3つの誘惑を受けますが、今日はその中でも特に3つ目の誘惑に注目してみたいと思います。
 3つ目の誘惑は、国々の繁栄を見せて、「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」というものでした。これをわたしたちに置き換えるとどうなるでしょう。「あなたの望むモノは何でも与えよう。名誉でも地位でも、お金でも尊敬でも、家族でもなんでも。健康な体も、平和な生活もあげよう。寿命だって伸ばしてあげよう。だったらもう神さまを信じなくてもいいじゃないか?」という感じでしょうか。わたしだったらグラッときます。このままの生活はしんどい。休みはあまり取れないし、遊びに行くのもいろいろ制限がある・・・。と考えるだけで暗い気持ちになります。イエスもグラッと来たのではないかと思うんです。この生き方をしていたら3年後に非常に苦しむ死に方で死ぬわけです。映画「パッション」の映像を思い出すと、あの痛みを回避できるなら何でもすると思えます。でも彼は「退けサタン!」と悪魔を退けるのです。なぜなら、イエスにとって「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という生き方は何かを実現するための「手段」ではなく、「目的」だったからです。神さまに従うことそのものが目的だったのです。
 より良き人生とか、平和な生活とか、問題の解決とか、神さまへの信仰を人生の手段だと考えると、神さまが期待通りに動いてくれないことに失望したり、自分を愛されていないんじゃないかと疑い惑ったりするようになってしまいます。だから「悪魔のささやき」もその一つの手段ではないかと考える隙が生まれます。そして、最後には、まったく信仰生活を離れてしまうか、あるいは表面的には信仰生活を続けながらも、それにはまったく喜びが感じられないということになってしまいます。
 それに対して、もしわたしたちが「目的」としての信仰を取り戻すことができるのなら、わたしたちは常に喜びであふれるのではないでしょうか。そのために、わたしたちは年に一度、大斎節の時を、自分の信仰を取り戻す/強めるために過ごすのです。

2/26

2/26 手を触れることのできる存在  マタイ17:1~9

今日は大斎節前主日。今日の聖書の箇所はイエスの姿が山の上で変わる場面で、福音書は違いますが毎年必ずここが読まれます。高い山にペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて登ったイエスの所にモーセとエリヤが現れ、イエスの姿も変わって3人で話し合うのを弟子たちが畏れながら見ている、ところが描かれます。
 昔の、いわゆる「偉人」と呼ばれる人たちのことをわたしたちは学びます。「伝記」ってやつは誰もが読んだことがあるでしょう。日本だと例えば聖徳太子だとか天智天皇だとか徳川家康だとか色々います。シュヴァイツァーだとか、最近の人だとマザーテレサとかだときっと伝記もあるでしょう。そういった伝記を読んでいますが、わたしたちにとっては過去の、とってもすごい人という印象で、目の前に来たらきっとびっくりして何も言えなくなってしまうだろうと思います。普通の「芸能人」って言われている人たちをみてもそんな感じですよね。よっぽど知っている人でもない限り、何となく「有名そうな人」とかに会えば、物おじしてしまいます。まぁ普通のことだと思います。
 モーセもエリヤも、ペトロたちからすればずいぶん昔の人です。彼らからすれば話しかけるのもどうかと思う存在です。そんな人たちと語らっているイエス、姿も変わっているし、やっぱりわたしたちから遠い存在なのだと思っても仕方がありません。ちなみにペトロの言っている「仮小屋」というのは神さまの宿る幕屋のことです。幕屋に入ってもらって祀ろう、くらいの感じです。自分たちの間にいるのではなく“畏れ多いもの”として扱おうとしていたのです。しかし「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」という声がしてモーセとエリヤは消え、そこには自分に触れているイエスの姿が残されているのみでした。イエスは特別な存在ではなく、自分たちが触れることができる者として、聞くことができる相手としてそこにいたのです。
 わたしたちにとって、イエスはどんな存在でしょうか。なるほど、ニケヤ信経にある通り、イエスさまは神さまであり特別な存在です。しかし、その一方で、わたしたちにとっても、ペトロたちと同じように、イエスさまは自分にとって触れることのできる者であり、聞くことができる相手でもあるのです。大斎節に向かって“特別だけど遠い”イエスではなく、近くて話せるイエスの姿を取戻し、そのイエスが共におられることを感じましょう。

2/19

2/19 底意地の悪い忍従をもって   マタイ5:38~48

「敵を愛しなさい」というイエスの強烈な命令には、誰もがびっくりするでしょう。普通に考えれば「敵」という相手は憎むものですし、考えたくもないですし、そばにいたくもないですよね。もしあなたの右の頬を殴る人がいたら、普通は距離を置きたいと思うでしょう。「訴えて下着を取る」というと何か変態さんみたいですが、ここで言われている下着というのは、イエスの時代の普通の服のことです。いわゆるパンツとかじゃありません。そんなことを要求してくる相手とは離れたいと思います。1ミリオンもそうですがそうやっていきなり理不尽な要求をしてくる相手からはできれば逃げたいと思うのが普通の心理なのではないでしょうか。そんな「逃げたくなる」相手に対して、イエスはわたしたちに「つきあってやりなさい。要求よりも多く」と告げています。その中で「敵」と認定される人には「愛しなさい」とまで告げているのですから、かなり厳しい要求です。「無理です」と思って当たり前ですし、クリスチャンだから全員それができると思うなよ、と思うこともあります。小説や漫画などでもネタにされますよね。
 自分にとっての「敵」である人々に対して、その要求以上に彼らに益するようにするというのは、わたしたちの心理から言っても受け入れがたいことです。「泥棒に追い銭」という諺もありますし、損に損を重ねて大損です。なぜイエスがこんなことを言ったかといえば、ローマの占領下であったユダヤの国の状況があったからです。これは、よくネタにされるように「寛容さ」を表しているのではなく、「底意地の悪い忍従」です。実際に殴られた相手に向かって「どうぞどうぞもう一発」と言ったとしたら、殴った方には後味の悪さが残るものです。それで何も感じない人はそういないでしょう。イエスはそうやってでも身の安全を守るしかなかった人々の側に立ってこれらのたとえを言っています。そして、それでもなお「敵を愛しなさい」と言っています。何度も言っていますが、「愛する」というのは「大事にする」ということです。好きになれなくてもいいのです。なぜなら神は「善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせる」方であり、そんな人でも神さまのお創りになった被造物だからです。だからこそ、自分の周りにもし「敵」がいるのなら、人として大事にしなさい。別にその意見を肯定しろというわけではありません。もちろん辛い事でもあるでしょう。だからできなくても構いません。しかしそれでもなお行おうとするなら、変化が見えて来るのではないでしょうか。

2/12

2/12 愛によって聖書の言葉を生きる   マタイ5:21~24,27~30,33~37

今週読まれた福音書は、先々週から続く「山上の説教」と呼ばれるイエスの説教集です。ですから、先週の話を踏まえて聞かなくてはなりません。「なぜイエスはこのようなことを言ったのだろう」「これらの言葉の背後には神さまのどんな思いがあるのだろう」という観点を忘れずに読んでいきましょう。
 今回取り上げられたのは山上の説教から、「兄弟との争いについて」「姦淫について」「誓いについて」の3つのことですが、要するに自分と他者との関係のことです。最初の二つはわかりやすいですが、最後の「誓い」についての話は少しわかりにくく感じますね。「誓ってはならない」というのは何となくわかりますが、「然り、然り」「否、否」というのがよくわかりません。調べてみると、要するに「やると言ったらちゃんとやる」「やらないと決めたらやらない」ということのようです。これなら「なるほど」と思えます。
 今日の3つのことは「殺すな」「姦淫するな」という十戒に関すること、そして「誓うな」と言われていることに対しての「神さまの思いはどうだったのか」というイエスの問いかけです。「殺すな」というのは物理的に殺すだけじゃなく、心理的に殺していることもあるじゃないか。姦淫というのは物理的に触らなければいいのか、心の中で思うのだったら同じではないか。誓うのではなく何にかけても誓わず、有言実行にしなさい。なるほど、その通りです。しかし今、わたしたちは気をつけなくてはなりません。イエスの言ったことの言葉だけに注目してはいけません。大切なのはその背後の思いです。なぜこう言ったのか、なぜ聖書を残したのか、という神さまの思いに思いをはせなくてはなりません。
 イエスは聖書に対して何と言ったでしょうか。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさい」。さらに「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」、つまり聖書全体が、この二つの掟を考えて読まれなくてはならないということです。わたしたちがイエスの言葉を、聖書をどのように読むのか、どのように生きるのか、思い返してみましょう。そして誰かにしてもらうのではなく、自ら歩み出しましょう。

2/5

2/5 律法の完成者イエス   マタイ5:13~20

「律法」についてどんな印象を持っているでしょうか。「難しい掟」とか「守ることができない荒唐無稽なもの」という印象でしょうか。「四角四面で守りづらい」とかそんな印象でもあるでしょう。聖書、特に福音書を読んでいると、律法学者たちが出てきていつもイエスにやり込められていますから、何となく、「旧くて堅苦しいもの」と考えてしまうかもしれませんね。
 先ほど読まれた福音書でイエスは「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と言い、掟を守ることを推奨しています。でも、普段のイエスの行動と、この言葉は合わない気がしませんか。イエスだったら「守らなくていいんだ」とか言ってしまいそうな気もします。少し違和感のある言葉だと思います。
 この違和感を解くヒントは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく、完成するためである」という言葉にあります。そう、イエスは律法を「完成」するために来たのです。わたしたちに「守れ」と言っているのは、「イエスによって完成された律法」なのです。ということは、イエスが来るまでの律法の運用の仕方や考え方は不完全だった、ということになりますね。さて、それではイエスは何をもって律法を「完成」だとするのでしょう。
 ところでみなさん「義務教育」において義務を負うのは子どもだと思いますか、大人だと思いますか。「14歳までの子どもが学校に通う義務がある」と答える人が結構いるのですが、実際は「大人が子どもを教育する義務」のことです。なぜこんな決まりができたのかと言えば、産業革命の時代、親が収入を得るため、子どもを鉱山などで働かせるのが当たり前だったからなんですね。「子どもを守るため」だったわけです。律法も同じです。「安息日を守り、これを聖とせよ」という律法は本来、「奴隷や家畜、寄留者などを休ませる、守る」ためにできたものです。誰もが休む日を作れば結果的に誰もが体を休めることができる。人は休まなくては生きていけない、というための決まりだったのです。それを「休み方はこう」という形で運用したので喜劇になっちゃったわけですね。それに対してイエスは、「安息日のために人があるのではなく、安息日は人のためにある」と正確に神さまの思いを伝えています。イエスの言う「完成」は、律法の背後にある神さまの思いを見出した運用をすることだったのです。
 だからこそ、今、聖書の言葉をひいてきて「ほら、ここを守れてないじゃないか」とやるのはナンセンスです。その背後にある神さまの思いを見ていないからです。わたしたちにとっても、イエスさまの時代のことは遠い昔のことですから、そのまま読んでしまっては意味が伝わらないことがあります。「聞き分けのない息子は殺してしまえ」という律法だってありますから。だからこそ聖書の言葉の背後にある、神さまの思い、イエスの思いを見つめ直す必要があります。聖書を読み、学ぶことはいつまでも続ける必要があるのです。

1/29

1/29 あなたたちは幸いでなければならない    マタイ5:1~12

「心の貧しい人は幸い」 有名な言葉ですね。でも、今日のこの「真福八端」を読むたびに考えてしまうのは、「この人たちは本当に幸いなのだろうか」ということです。「心が貧しい」のも「悲しんでいる」のも「義に植え渇く人々」も、正直なところ見ていたらあまり幸いだとは思われないと思います。だって「心が貧しい」って、日本語のニュアンスから言うと「何か残念な人」って感じがしますよね。これをイエスの話していたアラム語的に解釈をすると、「神さま以外にすがるものがなく、心細い人達」くらいの意味になりますが、でもその人たちが「幸いだ」と言われても、まったく納得のいくものではないですよね。
自分が悲しい時、誰かに「おめでとう。あなたは幸せですね」と言われたら、怒るか、もっと悲しくなるかするのではないでしょうか。もしかしたら感情すらも消えてしまうかもしれませんね。もちろん「平和を実現する人」や「憐れみ深い人」「心の清い人」は何かわかりますけれども、でも彼らもまた「悲しみ」や「つらい思い」と無縁でいられるとも思いません。なぜそれが「幸い」なのか、イエスはなぜそう言ったのだろうかといつも考えてしまうのです。
 イエスの言葉を聞いていた人たちは、「幸い」とは言い難い状況にある人々でした。イエスの時代、貧富の差は今より激しく、一握りの王侯貴族が富を独占し、一般庶民も貧しく、そもそも今でいうところの中間層なんかいない上、多くの人が「貧民」に分類されるような状況でした。特に戦争の後ローマに併合されたユダヤの国はなおさらでした。どう考えても「幸い」などと言えない状況にある人たち。でも、その人たちに対して思うことはなんでしょう。「ああ、この人たちこそ幸せでなければならない」 イエスはこのように考えたのではないかと思います。今辛い状況にある人々こそ、幸せになってほしい、いや幸せでなければならない。イエスの「真福八端」にはこんな思いが見え隠れしています。いや、それこそ神さまの思いなのでしょう。
 本当につらい時、神さまがただ黙っているように思えるかもしれません。見放されてしまったかのように思うかもしれません。でも、そうではありません。大丈夫。神さまはイエスさまをこの世に遣わした時のように、一緒に苦しんでいるのです。一緒に悲しんでいるのです。一緒に泣いているのです。そんな神さまの優しい心を胸に、わたしたちは喜んで、そして進みましょう。幸せに向かって進みましょう。

1/22

1/22 網を捨てて   マタイ4:12~23

今日の福音書はイエスが福音を宣べ伝え始めたころ、最初の弟子たちがイエスについていく場面です。ガリラヤ湖で漁をしていた四人の漁師を弟子にします。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉も相まって、非常に印象に残る場面です。「人間をとる漁師」という言葉ばかり印象深い場面ですが、わたしは、四人の漁師たちの行動にも注目したいと思います。それは彼らがその場に置いていったものです。ペトロとアンデレは網を、ヤコブとヨハネは父と舟を、それぞれ置いていったと記されています。マルコとルカの福音書にも同じく「置いていった」ことが書かれています。
 「置いていった」というのは、単純に物を捨てていったということではありません。彼らは漁師でした。漁師が網や舟を持たなければ、それはもはや漁師ではありません。震災の時漁具を流されてしまった漁師たちが途方に暮れていたのを思い出します。そして彼らは「父」という家族をも捨てていきます。「父」とだけ書かれていますが、当然母も妹たちもいたかもしれません。現に、ペトロの姉が後で登場しますから。つまりこれは、生活基盤をすべて捨てて従ったということ。同時に、当時の狭い社会であるなら、自分の築いてきたすべての立場も、経験も、何もないところへ飛び出していったことになるのです。
 わたしたちは多かれ少なかれ、色々なものを身につけています。物理的な服やら家やら車やらお金やらがまず浮かびます。それ以外にも経験やら年齢やら立場やら考え方やら、様々なものを身につけています。名誉や誇りなんてのもあるでしょうね。イエスに声を掛けられた時、それらをすべて「捨てて」行く。アッシジでフランシスコも、すべてを捨てて外へ出ていきましたが、イエスに従うということはじつはたったそれだけのことなのです。もちろん、これは「使徒たちや聖人たちが特別だから」と思う事も出来ます。でも、本当にそうでしょうか。わたしたちはその一部も出来ない存在でしょうか。まさか。
 イエスに従うことは、特別な人たちがする特別な事ではありません。わたしたち誰にでもできることです。そのために先に行った人たちがいます。なるほど、徹底的にやりきることはできないかもしれない。でも、わたしたちが多く身につけているものを、おろしてみることはできるんじゃないかと思います。多分、それはたった一歩のことです。本来、洗礼を受けたわたしたちは、多くのモノを捨てているはずなのです。思い出しましょう。その時のことを。そして今一度、イエスに従いましょう。

1/15

1/15 行きなさい、そうすればわかる  ヨハネ1:29~41

「百聞は一見にしかず」 言わずと知れた日本のことわざです。みなさんのうち多くの人が、この言葉を実感したことがあるのではないかと思います。教会もまた、まさにそのことわざ通りになるところなのではないかと思います。今日読まれた福音書の中でイエスはヨハネの弟子(うち一人はアンデレ)に対して「来なさい。そうすればわかる。」と告げ、確かにアンデレはイエスが救い主であることを見たのでしょう、自分の兄弟シモン(ペトロ)にそのことを伝えるのです。
 わたしたちが使う「言葉」というのは確かに多くのことを告げることができます。「あの場所はああだった」とか「これはこういう意味だ」。確かにそれでわかることがなければ、わたしたちは多くのことを学ぶことなどできないでしょう。全部が体験じゃないとならないのだとすれば、学校の勉強なんて実習以外は意味がなくなってしまいます。逆に言葉があるから、わたしたちは体験しえないことを学びうる、体験しうるとも言えます。
 しかし、多くの物事は「実際に体験する」ことによってわたしたちに強烈な印象と学びを与えてくれます。信仰的な体験もその中の一つです。「アッシジのフランシスコ」という人物の伝記を読み、学び、もうその人のことはわかっている、知っている、と思っていましたが、先日「アッシジ」という場所に実際に行ってみてその空気に触れ、言葉では伝えきることのできない何かを多く知ったように思います。「石畳の道」を実際に歩いてみてその歩きごこちを、「石造りの建築」に住んでみてその住み心地を、「岩の裂け目で寝起きした」という場所に入ってみてその居心地の悪さを、また多くのことを体験してきました。実際に「行ってみなければわからない」ことが多くありました。
しかし、勘違いしてはならないのは、そういったことを「体験しなくてはダメ」ということではありません。最初はわからないことがあってもいいのです。しかし、わたしたちが「踏み出す勇気」つまり「来なさい、そうすればわかる」という神さまからの呼びかけを受けた時に、それに素直に答えることができるかどうかということなのです。
フランシスコは、朽ち果てたサン・ダミアーノ教会の十字架の前で、イエスの声を聞いたと言います。「行って、わたしの教会をたてなおしなさい」 そして彼はアッシジの町周辺にある教会を修復しながら修道生活を開始しました。アッシジでの黙想の中、彼の信仰を強烈に感じたうえで聞いた、主教のダメ押しの言葉がとっても印象に残っています。「もし、ここに来て『いい体験ができた』と言って、日常に戻って『聖人はすごい。自分には無理』。『来年また来よう』で終わるのなら意味がない」
「来なさい、そうすればわかる」という神さまの呼びかけに対するわたしのアドバイスは一つです。「行きなさい、そうすればわかる」 教会の信仰の道は、「やったことがない」とか「初めてだから」といってしり込みするのではなく、ほんの一歩を、促されではなく自らの決断をもって踏み出すところから始まるのです。ぜひ、その一歩を踏み出す、今年一年であってほしいと思います。
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1/8

1/8 正しいことを共に行う   マタイ3:13~17

わたしたちは教会の信仰の道に連なる時、洗礼を受けます。イエスさまが洗礼を授けるようにとお命じになった通りなのですが、イエス自身は誰にも洗礼を授けていません。聖書の中のどこにも出てこないのです。それとは逆に、すべての福音書が、イエスが洗礼を受けられたことを伝えています。
 イエスさまは「洗礼を授ける」立場なんだから、受けるなんて、と考えたのが洗礼者ヨハネです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」とイエスを思いとどまらせようとします。わたしの後から来る方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになると言い切ったヨハネですから、心底びっくりしたのでしょう。それに対するイエスの答えが「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」という言葉です。なるほど、「洗礼」自体は正しいことに違いありません。ですが、イエスさまは神の子なのですから、わたしたちと同じようにしなくてもいいように感じてしまいませんか。
 立場のある人に便宜が図られるというのはよくあることだと思います。また、いつも応援している人を優待するということもあります。例えば長い行列に並んでいる時に、そういった人が先に行くわけですね。いいなぁと思うこともあります。腹が立つこともあります。でも、一緒にするのが大事になることもあるとも思います。先日香港に行く際、出国手続き待ちで1時間半ほど並ぶ羽目になりました。新千歳空港は急ぐ人を通すような余裕もなく、ただ並ぶしかできないようで、色々な国の人、立場の人が延々一緒に並んでいました。でもそうすると何となく妙な一体感が出て来ます。たまに英語で「ようやく通ったぞ」という叫び声が上がり、「いいぞ」とか「頑張るぞ」のような返事があるんですね。遅々として進まないのですが、一緒に同じことをやったというのはこれほどの一体感があるのかと思いました。脇をすり抜けていってしまえば、こういった一体感を味わうことはないでしょう。いや、並ぶのはしんどいのですが、何も得るものが無いわけじゃない、と考えた時、すっと楽になりました。
 イエスは、人々と一緒に洗礼を受けました。それは「自分は人を導く神である」という立場ではなく「自分はみんなと一緒に歩む人である」という立場の表明です。そして、それがどれほど非効率に見えても、周囲と同じことをすることで多くの人と一つになる道でした。しかし、そんなイエスから自分たちに目を転じれば、わたしたちは同じ一つの洗礼を受けたはずなのにバラバラです。一体どうしたらいいものなのかと、途方にくれます。今からどうやって一体感を出せるのだろうと思います。
 わたしたちにできるまず一つのことは「礼拝に努めて出席する」ということです。信仰は個人的なものですが、集団的なものでもあります。一人では逸れてしまいます。集団的な信仰を養うのが他の人とささげる礼拝です。そして礼拝に出席したら、周りの人と祈る言葉を合わせること。特にペースを合わせて祈ることです。自分だけが遅いのでもなく、早く終わるのでもなく、合わせようとすることです。祈りの言葉が一体となり、何度も何度も繰り返されることでわたしたちは一体になっていきます。離れてしまったわたしたちが再び集められるのは、共にする祈りによってです。できる限り教会に集う一年にしていきたいものです。

1/1

1/1 名前を付ける   ルカ2:15~21

クリスマスからちょうど1週間。イエスさまが名付けられたことから「元旦」は「主イエス命名の日」として、教会では礼拝をする習慣になっています。世間はお正月ですが、教会の暦ではクリスマスの期間中。飾りつけもクリスマスのままで、ちょっぴりですが異空間にいる気分が味わえるのが今日の「主イエス命名の日」です。
 わたしたちは誰もが「名前のあるもの」に囲まれて生きています。わからなかったり慣れているものであったりすれば「あれ」とか「それ」とか言うのですが、基本的には名前を呼ぶものですよね。人の名前もそうですし、「聖書」とか「祈祷書」とか「ペン」とか「りんご」や「パイナップル」なんて物だって立派な名前を持っています。また大まかな名前の他に、細かく品種名やら品名やらがあって、考えてみればよく物の名前を覚えてるなぁと感心します。聖書において最初の人アダムが創られた時、周りにいた動物や植物に名前を付けていくんですね。人間も生まれたら1週間ほどで名前を付ける。凝った名前のこともありますし、普通の名前のこともありますし、色々ありますね。動植物やはたまた元素まで、名前を付けるというのはとても大事なことです。何か物があって、その名前を知らないと、わたしたちは「これなに?」と聞きます。名前を聞いて初めて認識する。初対面の人と会った時も名乗り合うのが普通だと思います。名前があって初めて物を認識できるんですね。名前を付けるということ、それは「そのものをそのものとして自分の世界に誕生させる。」ということです。名前は世界と物と、また自分と世界とをつなぐ入り口です。「名前」というのは何度も何度も呼ぶことで、だんだん身近になっていくものでもあります。
 そして、名前は「呼ぶ人」がいなければ機能することがありません。どんなに立派な名前がついていても、呼ばれることがなければ意味がないのです。「名前」というのは呼ばれるためにあります。人の名前だって、イエスの名前だって、どんな名前だって呼ばれるためにあるのです。わたしたちが祈る時、何度もイエスの名前を呼びます。何度も何度も呼んでいることで、イエスさまが身近に感じられます。よく祈っている人ほど、イエスが身近に感じられるはずです。今ここにおられる皆さんは大丈夫だと思います。そしてまた、名前を呼ぶ機会の多い家族の方は身近に感じられることと思います。ですから1つ、お願いがあります。教会は「神の家族」であります。そしてそれは「イエスさまによって」結びついているものであります。どうかなるべく、お互いに名前を呼びかけあってほしいのです。また、それぞれの祈りの中で、具体的に名前を挙げて祈ってほしいのです。そのことが、小さいかもしれないけれども教会を変えていくでしょう。一年の初めに、小さな変化をおこしてみませんか。