日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

12/10

12/10 「道を整える」    マルコ1:1~8

 「割れ窓理論」という言葉をご存知でしょうか。犯罪心理学の用語の一つで、簡単に言うと、軽微な違反(やそれに類するもの)を放置していると(例えば落書き)、その地区の維持に関心のある人が少ないというサインになって、徐々に住民のモラルも低下し、犯罪の起きやすい地区となっていく、というものです。建物の窓が割れているのを放置すると、その地区の犯罪率が上がりやすいということからこの理論の名前が付きました。それに対抗するためには、一見無害に見える軽微な秩序違反も取り締まり(ごみの分別を徹底的にやる)、警察によるパトロールや交通違反の取り締まりをし、地域住民が警察に積極的に協力するということによって改善していくという手法を取ります。実際にこれで犯罪率が劇的に改善した都市があります。
 この話の肝は「軽微な秩序違反を見逃さない」ことにあります。「軽微な秩序違反」というと大事に聞こえますが、要するにゴミが落ちてたり、不要なものが出しっぱなしになっていたりするのを片付けることです。特に公共の場は「いつか誰かがやるだろう」という形で放置されがちです。教会ももちろんそうです。ごみの分別のいい加減さや、冷蔵庫の片付かなさなど、放置されている場所がたくさんあります。その責任は牧師だけにあるのではなく、ここを使うみなさん一人一人の自覚にあります。ここは「わたしの」場所であり「あなたの」場所です。「わたしくらいは大丈夫」が長年続けば、だんだんおかしくなってしまいます。
 「主の道を整える」とヨハネは言いました。ヨハネの言う道は、わたしたち一人一人の心の中にある、神さまの通る道です。でもその道が、あまり使っていないからとでこぼこだったり、ゴミだらけだったりしたら、神さまが入って来にくくなってしまいます。一年の初めに、神さまをお迎えするその道を、時期を決めて整えるのは大切な事です。神さまの道を整えるためにはまず、祈ること、聖書を読むこと、そして礼拝に足を向けることです。神さまの道を整えて、クリスマスをお迎えしましょう。

12/3

12/3 「わからないしんどさを生きる」   マルコ13:33~37

 今日から世間よりも一足早く教会の新しい一年が始まります。祭色も紫になり、クリスマスの準備、降臨節の始まりです。カレンダーの一年は元旦、日本だと何となくお祝い気分で始まりますが、教会の一年は紫の期間。準備、慎みから始まります。降臨節になると、何となくクリスマスが近いような気がして、うきうきした気分になるものですが、慎み、準備、そして待つ期間とされています。聖書の箇所もいきなり「目を覚ましていなさい」という終末を暗示するような、少し暗いイメージのあるところが読まれます。それはなぜかと問われれば、「キリスト教というのは根本的に『待つ』ことを大事にしているから」ということになります。
 新約聖書は基本的に、天に帰ったイエスが「近いうちに」再び来る、という希望の中で書かれたものが多いです。しかしその期間が50年になり、100年になり・・・、「いつ来るかわからないじゃないか」「本当に来るのかよ」という人たちも現れ始めます。そんな中で「希望を持って待つ」というのが何と困難な事か。辛い出来事があっても、終わりの時間がわかっていれば耐えられるけれども、それがわかっていないと心は壊れやすいものです。ですから「いついつが世の終わりだ」とはっきり言う人に人々はついて行く。だってはっきり言ってくれるから。しかし思い出してほしいのは、最後の預言者マラキが預言をしてから、イエスが生まれるまでにも長い時間がかかっているということ、そしてその預言を信じて待っていた人たちがいたということ、そしてその「待つ」ことに対して「イエスの誕生」が確かに与えられたということです。根本的にキリスト教は「待つ」宗教なのです。
 待った先に喜びがある。言葉で書くと簡単ですが、先ほども言った通り「期限がわからないものを待つ」というのはとても大変な事です。今の社会だったらありえないことですよね。なんでも期限が決まっている。期限なんかありませんよ、というモノだって実際は期限があるものです。教会の言う「いつ来るかわからない」というのは、現代の感覚からすると「ありえない」ことなんです。でも、わたしたちはそれを「信じる」ことにしたはずです。教会の一年が「待つ」ことから始まるのは、わたしたちにそれを思い出させるためです。ですから必ず「目を覚ましていなさい」という聖書の箇所が読まれ、わたしたちはイエスさまが約束してくださったことを再び心に留めるのです。
それはとてもしんどいことです。だっていつだかわからないから。それはすぐに忘れたいことです。だって考えても仕方がないから。しんどさを忘れてもいい、でも、何度でも思い出してほしいのです。だってそれは明日なのかもしれないのですから。特別な事はいらないのです。毎週の礼拝で、そしてこの紫の準備の期間に、わたしたちは何度でも「目を覚ましていなさい」と警告されます。そのことを心に留めて、クリスマスまでの準備の期間を過ごしましょう。

11/26

11/26 「される方からする方へ」    マタイ25:31~46

 教会の一年は今週で終わり、新しい一年が始まります。今週の福音書では、わたしたちのキリスト者としての生き方、教会としてのありかたが問われるような部分が朗読されました。シーフェアラーズセンターでも意識していることですが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というイエスの言葉は、わたしたち一人一人にとって、また教会の在り方にとって、また教会を取り巻く様々な活動にとって、いつでも意識しなくてはならないものです。
 教会に通っている時、またイエスさまに祈る時、わたしたちはしばしば「わたしを助けてください」と祈ります。そして教会や牧師、また教区に対して「わたしを助けてください」と願います。「わたしたちこそ助けられるべき者である」、「わたしたちこそ憐れまれるべき者である」という心がどこかにあるのではないでしょうか。だってわたしたちは貧しく、あるいは年老いており、あるいは生活上生きるのに苦しい状況を抱えており、あるいは定職につけず、あるいは病気であり等々、個々の状況を上げれば誰もが「普通の人よりも大変な」状況を持っているからです。すべてが満足する状況にある人って、今の日本で稀なことだと思います。その上で、教会が、あるいは牧師が、あるいは教会委員が、あるいは余裕のある人たちが、あるいは若い・現役世代の人々がわたしを支えるべきであり、負担を軽くすべきであり、教会の奉仕を担ってくれるべきであり等々、と一ミリも考えたことがない人はいらっしゃるでしょうか。わたしはできないけれども「教会として」やるべきことだから、自分以外の誰かがやってほしいと考えておられることもあるのではないでしょうか。もしかしたら「今までしてきたんだから、今からはしなくてもよい」と考えられるかもしれません。
 今日の聖書で書かれているのは「終わりの時」、イエス・キリストの再臨の時です。わたしたちが「していた」「していない」「してきた」「してこなかった」を神さまに判断されるのはその「終わりの時」で、それまでは誰にも判断できないしするべきではないことです。自分で自分のことを「ダメだ」とか「いい」とか決めるのも同じです。もし「ダメだ」と思うのなら、わたしたちに与えられた1タラントンは「自分の命」であることを思い出しましょう。命は「存在する」ことが大切です。もし「いい」と思うのなら、わたしたちに与えられた5タラントンを思い出しましょう。それは用いられなくてはなりません。もちろん、ずっと動いていると疲れちゃいますよね。ですからイエスはこう言います。「疲れた者、重荷を負うものはわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」ここにいる人たちはみな同じく、終わりの時まで誰かのために生きる仲間です。自分が「助けてもらう」ことに留まるだけではなく、「誰かを助ける」ようになる。教会の一年の終わりに、終末の時の聖書を読みながら、新たな一年への決意を新たに参りましょう。

11/19

11/19 「自分を生かす」    マタイ25:14~15,19~29

 今日の福音書は「タラントンのたとえ」。誰もが知っているたとえ話。主人が三人の僕にそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けて旅に出る。主人が帰って来た時、5タラントンと2タラントン預かった僕はそれぞれ同じ額だけ儲けるが、1タラントン預かった僕は土の中に埋めたので増やすことができず、帰ってきた主人に叱られてしまうという話です。このお話はとても有名ですが、同時にとても理不尽な話であると思います。主人は何も言わずにタラントンを置いていったわけで、もし仮に運用したとしても損して無くしてしまう可能性もあります。少なくとも埋めておいた僕は無くしてしまったわけではありません。このお話は「たとえ話」であるということ、そして「タラントン」でイエスが何を示そうとしたかを見ないとわかりません。ところでタラントンってどのくらいの金額だと思いますか。一説によると三千万円くらいだそうです。1万円2万円の話ではなく、もっと大きな話なのです。
 ところで、わたしたちが神さまから与えられているもので、一番大きなものって何でしょう。もちろん一番大きなものは、わたしたちの「命」です。意外に意識することは少ないのですが、そうなのです。そしてそれぞれの「命」にはそれぞれの「賜物」が備えられています。かつて人々はこのたとえ話を通して、自分たちに与えられているものを生かそう、自分に与えられているものを用いて人のためになるようにしようと考えました。その時に生まれた言葉が「タレント」です。勘違いしてはいけないのは、この概念で表しているのは「特別な才能」ではなく、それぞれに違う「一人一人の力」「能力」のことで、比べる類のものではないということです。そう考えていくと、神の国というのは「受け身」で、周りがやってくれるのを待つのではなく、自分で、自分の力を生かす場所だということになります。もちろん、それぞれの力に応じて、状態に応じてということになります。「できない」を探すのではなく「できる」を探すことです。今この教会において、全く何もできない人というのはいないはずです。なぜなら、わたしたちには「命」が与えられており、その「命」の一番大事な役割はそこに「存在」することです。「生きて」いるのも「タレント」、「歩く」のも「タレント」、「喋る」のも「タレント」なのです。「教会」という場所において自分を生かすのは別に難しいことではありません。そこに「足を運ぶ」ことだけで十分に生かしています。それ以上はおまけみたいなもんです。でもわたしたちはそれを比べて、「あいつのほうがやってる」とか「やってない」とか言い、落ち込んだり憤ったりします。でも、命において「存在する」こと以上に大切な事ってあるでしょうか。この教会の中で、礼拝において、多くの命が「存在し」、自分を生かすものであることを願っています。

11/12

11/12 「備えるとは」    マタイ25:1~13

 本日読まれた福音書は「十人のおとめのたとえ」。天の国に入るのには、準備が肝要ということで、それをイエスは「目を覚ましていなさい」と表現し、しばしば聖書のたとえの中で用いています。
 「準備する」ことが大事なことはみんなわかっています。子どもの時から何度も皆さん言われていますよね。例えば学校の準備。明日の授業に備えて教科書をランドセルンに入れるとか。大人になったら仕事の準備。会議だプレゼンだ出張だ、とものによってはきちんと準備しておかないと大変なことになります。とただ、こういった場合は大概何とかなるもの。過剰な準備でプレッシャーにならないよう「何とかなるさ」と開き直るのも大事な心構えだったりします。でも、今日のたとえ話では「何とかなるさ」ではどうにもならない様子が描かれます。ということはどうやら、イエスが言いたいのはそういう「準備」の話ではなさそうです。
 2011年の東日本大震災の後、盛んに「有事への備え」ということが言われだしました。非常持ち出し袋を用意しておくこと、阪神淡路大震災の教訓では寝室に靴を置いておくこと、それ以外に様々な事が言われました。「津波てんでんこ」という心構えが紹介されたこともありましたね。でも今、あれから6年経っていますが、当初は報道などもありましたが今はそうではありませんし、「いつ起こってもいいように準備しておく」という気持ちが少し薄れてはいないでしょうか。もちろん地域によってはそれほど地震の心配はないのでしょうが、突然起こるのは地震だけじゃありませんよね。世界中のどんな場所でも、何らかの「突然起こる」災害に巻き込まれない保証のある場所はありません。津波の心配はあまりないとしても、樽前山が噴火するかもしれない、大雨で川があふれるかもしれない、交通事故かもしれない、急な病気かもしれない・・・と考えていったらキリがありません。もちろんすべてに対して完璧な対策法を備えるのは難しいと思います。でも、「想定外」のところから何かがやってくることはあります。ではどう考えたらよいのでしょうか。イエスの言うのはそれらの個々の状況以前の準備、つまり心構えについてです。もちろんそういうことが起こることを知らない人はいません。ですから本当はみなさん準備はできているはずです。
10人のおとめたちが灯していたのは「心の火」です。しかし心に灯った火も、燃料が、つまり燃え立たせる動機がないと消えてしまいます。それは残念ながら他の人と分け合える性格のものではありませんよね。東日本大震災で得た準備の教訓が薄れてきているように、わたしたちの心の火はすぐに消えてしまいます。ですからわたしたちは繰り返し思い起こして動機を新たにします。目新しいことがなくても、「もうわかってるよ」と思っても、わたしたちは繰り返し聖書を読み、祈り、備える心を新たにします。

11/5

11/5 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」    マタイ23:1~12

 今日朗読された個所は、イエスがとっても辛辣に律法学者やファリサイ派の人々を批判したところです。今日朗読しなかった続きの部分で、イエスは彼らのことを呪ってさえいます。「言うことは聞きなさい、でも行いを見習ってはいけない」というイエスの言葉は、今聞くと皮肉以外の何ものでもありません。
「先生」=「ラビ」たちは、厳しい修行や勉強をしてその立場に立っていますし、彼らの費やした時間や努力は決して無駄ではありません。それに普通の人々が知らない律法の言葉もたくさん知っているわけですから、それだけで「尊敬」に値することは確かなわけです。教会ではたまに「わたしは洗礼準備などできちんと勉強しなかった」とか「子どものときだったから忘れちゃった」と「無知」を「自慢げ」に言う人がいますが、比べるまでもありません。彼らの学んだ知識は神さまから与えられたものです。
しかし一方で、「先生」「先生」と持ち上げられていることで増長することもあり得ます。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という川柳がありますが、先生先生と呼ばれていい気になっている人を揶揄したものです。転じて大人の世界は「先生」と簡単に言うけど、別に敬意を持っているわけじゃないから気を付けよという意味にもなります。日本だとあらゆる職業が「先生」と呼ばれます。学校の教師、医者、政治家、弁護士、書士なんかもそうでしょうか。牧師同士で会話をしている時もそうですが「〇〇先生」とお互いに言っている時、その「先生」は何の先生なんだろうと、訳が分からなくなることがあります。ちなみに中国語だと「先生」は「さん」の意味になるそうで、日本語としての用法はこれに近いのかもしれませんね。でも実際に呼ぶとなると結構困るので、「先生」というのは使いやすいのだろうと思っています。ただ「課長」とか「牧師」という職業で呼ぶよりはいいのかなと思います。それはあくまで「職業」であって、その人個人を呼んでいるのではありませんから。
「先生」というのは「先に」「生きる」者と書くわけですが、ただ単純に年を取った人ということではありません。自分のしていることについて「先に」「学んで」いる人のことを指します。わたしが楽器を練習する時、わたしより上手い人はみんな先生です。特に学校で専門に学んだ人は。では、教会で神さまについて学ぶ時、もしくはイエスさまに従って生きる時、わたしたちが師と仰ぐのは信仰の先輩たちであり、またその生き方について専門的に学んだ人たちです。特に、既に天に召された多くの人々です。信仰の先輩たちの書き残した多くの書物はそれを助けてくれます。また、今日のように、教会に属した、または自分に関係した多くの先輩たちを記念し、思い起こす時、わたしたちは深い学びに導かれます。そのことを覚えて今日の祈りを続けましょう。

10/29

10/29 「ダビデの子は神の子」    マタイ22:34~46

 イエスは教会の中で様々な呼ばれ方をしています。聖書の中だけでも多くの呼び方がありますし、様々な祈りや聖歌、伝承などの文章にもいろいろ登場しています。「神の子」「ダビデの子」「主」「先生」「人の子」などなど、たくさんありますね。
今日の夫君所の後半で、イエスはメシア=キリストについて、「ダビデの子」と呼ぶのはおかしいのではないか、という見解を示しています。しかし一方で、イエスの父ヨセフは「ダビデの家に属する」わけですから、イエスのことを「ダビデの子」と呼んでも差し支えないような気もします。
ここで考えなくてはいけないのは「イエスは自分のことをメシア=キリストだと思っていたかどうか」ということです。少し前にさかのぼって読んでみると、どうやらその意識はあったようですね。(16章)ではなぜこんなことを言ったのでしょう。
通常、人は場面によって様々な呼ばれ方をするものです。ある男性がいたとします。親にとっては「息子」、妻にとっては「夫」、子どもにとっては「お父さん」、会社の人にとっては「〇〇部長」、教会で会う人は「○○さん」、幼馴染や気の置けない友人はあだ名で呼んだりすることもあるでしょう。選挙運動をしている政治家にとっては「みなさん」の中の一人かもしれません。そして神さまにとっては、大切な「子ども」です。じゃあその中でどの呼び方が正しいのか、と聞かれても答えに困っちゃいますよね。聞く人によって大切なところは違うでしょうから。しかし、その中で仮に呼び方に順位を付けるのなら、やはり「神さまの子ども」であることが第一なのではないかと思うのです。そしてそれは誰もが同じです。
イエスの言いたかったこともこれと同じなのではないでしょうか。「ダビデの子」というとどうしても「王の家系であり、ユダヤ人をローマの支配から解放する者」というメシア像が一番に浮かびます。ですがイエスは明確にそのメシア像を否定していますよね。「苦しみを受けて殺され、三日のうちに復活する」と何度も言っています。多くの人が、今の状況に不満を持ち、それが劇的に変わることを望んでいます。だから「ダビデの子」という勇ましい、そして現状を打破してくれそうな呼び方に人気が出る。大統領選挙や知事選挙の結果がそうだったように思います。しかし変わるどころか世界の状況は悪化している気がします。必要な事は急激な変化ではありません。神さまにすべてをゆだね、神さまのみ業を信じることです。「ゆだねる」というのは何もしないこととは違います。今がどうなのか。それがどうして自分にとって良くないと感じられるのか、それはなぜなのかと考えること。その時、「○○のせい」「自分のせい」で「〇〇を打破すれば」「自分を改めれば」と考えると、それはダビデの子を待ち望むしかありません。しかし今を見つめ、神さまと対話する祈りに身を委ね、そしてできることを淡々とすることです。

10/22

10/22 「最後に神のものとなるように」   マタイ22:15~22

 今日の聖書の箇所を現代に置き換えてみると『「国への税金」は納めるのがキリスト教的に正しいですか』と聞かれているようなものです。でも、これってわたしたちにとっていいも悪いもないですよね。というよりも国の税金って、わざわざ納めに行くというよりは多くの人が天引きだったり、消費税みたいにその場で払ったりするので、あまり意識していないと思います。
なぜ「皇帝への税金」が問題になるかと言いますと、ユダヤ人にとって土地と収穫物はすべて神さまのものであり、神さまに納めるはずなのに、それを奪った皇帝に対して納めるのなら律法違反ではないかという議論があったからです。一方でローマ帝国にとっては「税金を納めない」というのは反逆行為ですよね。「脱税」をしていて会社に捜査が入るって今でも時々ニュースになりますね。どちらをとっても齟齬が出る。まさに「言葉尻を捕らえる」ための質問です。
かつてのユダヤの国は神殿への税(神殿税)がありました。これは「税」というより、今の「月約献金」のようなものです。神殿のために納めていました。人々にとっては神さまのためである「神殿税」は納得できても皇帝のためである「国の税金」は納得ができなかったでしょう。今と違って「税金を納めると、還元される」感覚はほとんどない時代のことですから、特に貧しい人たちにとって重い負担となっていました。おもしろいのは、神殿税はイスラエルの古銭(肖像も銘もない貨幣)、ローマの税金はローマ貨幣(肖像と銘入り)でしか納めることができなかった点です。ある意味でこの2つの支払先は、行く先が明確になっていました。
しかし考えてみると、わたしにとってはどちらも最終的に行きつく場所は同じような気がするのです。それぞれの国は、不完全ながらも今も神さまによって支配することを許されているわけです。最終的にすべて神さまのみ心のままに行われることを、わたしたちは信じているはずです。皇帝に納めようが、国家に納めようが、教会に納めようが同じです。しかしわたしたちはしばしば目先の「支払う相手」を見るあまり、それが最終的に何のために用いられるのかが見えなくなってしまっています。教会に対して、この教会がここにあるのは、神さまの意志の小さな一つですが、献金という形で維持するしかない以上、わたしたちは教会を支える必要があります。そして、国に対しての場合、わたしたちは意志を示すことができます。今日は選挙ですが、投票はお済ませですか。国家に対しても、それが神さまの国の実現につながるよう、働きかけることもできるのです。最終的に、すべては神さまのものですから「神のものが神のものになる」ように、わたしたちは働くという意識を持ちたいのです。

10/15

10/15 「礼服を身につける」  マタイ22:1~14

 しなければならないことって、なかなかやる気が起きなかったりしませんか。特にやらなきゃいけないけど、緊急性のないことや、習慣にすべきことなんかはそうかもしれません。「明日から本気出す」「だから今日は(今回は)いいや」という気持ちになることって、わたしたちには身に覚えのあることだと思います。「〇〇した方が良い」ことについて「やらない言い訳」というのはたくさん見出せます。今日のたとえ話で、最初に招かれた人たちも、「王子の結婚式だから行った方が良い」ということはわかっていましたが、自分の食べ物を得るために畑へ行き、あるいは商売に行き、無視する人もいれば乱暴して使者を殺してしまう者までいました。行かない理由は無数にあったことでしょう。これを現代に置き換えれば「畑があるから」「仕事があるから」「なんとなく気分が乗らないから」「あの人が気に食わないから」など、やはりたくさんの理由に置き換わることでしょう。誘った人に暴言を吐く人もいることでしょう。そうすると神さまはまた別の人々を「みんないらっしゃい」と呼び集めます。善人だろうと悪人だろうと区別しません。しかし結果は「服装がふさわしくない」とされた人が放り出される始末。この文脈で礼服を着ていないということは、貧しくてそのための服をそろえることができない人たちが思い浮かびますが、その人たちが放り出される。教会に貧しい人は要らないってことになってしまい、このことをどう考えればよいのかと考え込んでしまいます。そんなバカな、と思います。
「王子の婚宴」というのは何のことでしょう。そして「礼服」とは一体何のことでしょう。イエスはガリラヤのカナで婚宴に出席し、これを祝福されましたが、婚宴で重要なのはともに食事をすること、神さまと、そして多くの人々とともにつく食卓です。そして「礼服」とは、それにふさわしいふるまいのことです。そこで互いに裁きあったり、理由を付けて出席しなかったりするというのはふさわしい行いではありません。今の教会の食卓(聖餐式・愛餐会)は、将来、来たるべき時、世の終わりに設けられる神さまとの宴を模しています。もちろんそのものではありませんが、わたしたちが教会で共に食卓を囲むということに、もう少し意識的であってもよいと思います。あの人がいるから、あの人がささげたものだから「行かない」「食べない」ということではありません。神さまが清められたものを人が清くないと言ってはならないのです。もしふさわしくない行いをすればどうなるか。「礼服」を身につけていなければどうなるか。残念ながら外に放り出されてしまいます。「礼服」は簡単に脱ぐことができてしまいます。昔身につけていた礼服が、今もしかしたら脱げてしまっているかもしれません。いつでも自分の行いを点検し、礼服を身につけましょう。

10/8

10/8 「○○がなくなれば」  マタイ21:33~43

 このぶどう園のたとえ話は、多くあるぶどう園の話の中でも一番嫌なたとえ話だと思います。ぶどう園で働く農夫たちが、ぶどう園を自分たちのものにしようと考えて僕や跡取り息子を次々殺してしまうからでもあるし、主人が根気よく次の人を送り続けるからでもあります。普通に考えたら最初の殺人が起こった時点で警察に通報、この時代だったら軍隊でも送るかという話になるでしょうか。もし自分がこの主人の僕だとしたら、正直なところそんな危険なぶどう園には行きたくないと駄々をこねるでしょう。ぶどう園で働いていた農夫たちは「僕さえいなければ」「跡取り息子さえいなければ」とエスカレートしていき、きっと最終的には「主人さえいなければ」になってしまっただろうと思わされる話の流れです。
 「○○さえいなければ」とか「〇〇がなければ」という考え方は、わたしたちもよくする考え方です。何かの状況が上手くいかない時、わたしたちは改善をしようとして、悪い点を探します。それが「○○があれば」「〇〇がいれば」なら、それを求めることで済みますが、「〇〇がなければ」「○○がいなければ」だとそうはいきません。モノならば避けるだけですが、人だったらどうなるでしょうか。最終的にはこのたとえ話のように殺してしまう結果になりかねません。そしてその認識が間違っていたら次の原因を探して・・・・となって最終的には何もなくなってしまうかもしれませんね。ぶどう園の労働者たちも結局自分たちが手に入れようとしたものを手に入れることはできませんでした。
 「○○がなければいいのに」という考え方は危険です。なぜなら、それがそこにあること、その人がそこにいることは、もしかしたら「家を建てる者の捨てた石」が活用されるためかもしれないからです。わたしたちにわからない神さまの計らいかもしれないからです。それは不思議に見えます。わたしたちは自分の、そして教会の「弱さ」にもっと向き合うべきなのかもしれません。神さまはなぜ、自分に、教会に今の状況を与えたのか。「○○がなければ」ではなく「〇〇があれば」でもなく、「わたしの得ている〇〇は実は神さまの恵みである」という視点が、わたしたちには必要です。それが嫌なものでも。特定の人が満足するのではなく、教会に足を運ぶすべての人が「ここに教会があるのは神さまの恵みである」と感じられるようでありたいのです。 

10/1

10/1 「神さまの子どもと反抗期」    マタイ21:28~32

 「はい」と素直な子、「やだよ~」とちょっと反抗的な子。幼稚園にはたくさんの子どもたちがいます。どの子もかわいいけど、正直なところわたしたちは「素直な子」の方が「かわいい」と思うことが多いのではないでしょうか。「ちょっと反抗的」なのがしばらくの間だけならばいいのですが、イヤイヤ期のようになんでもイヤイヤだと、わかってはいても嫌になってしまいます。「『不良が更生した』ことを良い話のように言うが、最初から道を逸れない方が良いに決まってる」ということが、一時期話題になりました。確かにそうですね。素直に進んでいくのが一番いい。でも、たいていの人は何らかの形で反抗期を過ごします。逆に素直な子供だと思っていたら、自分を押さえつけていただけで、後から不満が吹き出してしまい、大事件になった話を聞くこともあります。
 信仰もこれと似たようなところがあります。最初は「神さま大好き」で済んでいたはずの信仰が、だんだん自分で学んで調べていくうちにどうしてもわからないこと、納得のいかないことが出てきて、人によっては教会を離れてしまうこともあります。また、教会で言う「信仰」と、教会の人たちの振る舞いにギャップを感じて嫌気がさしてしまうこともあります。それでやはり教会を離れてしまうこともある。でもその後何十年も経ってからふと教会に足を向けて、今度は若い時の様子がうそのように教会で活躍する人も多くおられます。
 教会の信徒は、神さまにとって「自分の子ども」のようなものです。幼稚園で子どもたちに「みんな神さまの子どもだよ」と伝えると嬉しそうに「うん」という子が多いのですが、青年たちに言うと鼻で笑われたりしますね。でも、何歳だろうとみんなが「神さまの子ども」なんです。神さまって何万歳なんだろう。神さまは時に「叱る」こともある。とっても厳しかったりもする。洗礼者ヨハネは30足らずの若者だったけれども、その若者に言われて、神殿の祭司長や長老たちは反抗した。今聖書を読んでいるわたしたちにとってはヨハネが神さまから遣わされていることはわかっているけれども、その当時に自分がいたらそれに素直に従える自信はありません。神さまが「叱る」時は、直接神さまが降りて来るのではなく、誰かの手を借ります。わたしたちはイエスのたとえ話の兄のように「考え直して」出かけることができるのか、それとも弟のように「返事だけはしても行かない」のか、自分の心に問いかけてみましょう。