日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

6/10

6/10 「普通じゃなくてもいいじゃない」    マルコ3:20~35

 「出る杭は打たれる」ということわざがある通り、目立つ人が叩かれるというのは、日本古来よりの伝統かもしれません。人と違うことをしない、平均的である(普通である)ということを尊ぶ風潮は確かにあります。一方で、圧倒的な個の力にあこがれを持つものです。スケートの羽生選手や野球のイチロー選手などのスポーツ選手、棋士の羽生さんや京大の山本教授など、多くの人々を思い浮かべることができます。イエスもまた、その一人でしょうか。明らかに普通ではありませんよね。神の子ですし。今日の福音書でも、活動を開始したばかりのイエスに対して律法学者たちが、「あいつはベルゼブルの力を借りている」という、なかば言いがかりの言い方で妨害しようとします。また、「家族といるのが普通じゃないですか」と言わんばかりに、イエスの家族がやってきますが、イエスはそれに対しても「わたしの家族は神のみ心を行う人だ」と退けます。
 わたしたちの多くは一度ならずとも「普通じゃないからやめなさい」という言葉をかけられたことってないでしょうか。もしくは「一般的じゃないからやめようかな」と思ったことがあると思います。自分が「普通」かどうか、という判断を、わたしたちは常にしているように思います。また、「普通」であることにこだわる時もあるのではないでしょうか。「これが普通だ」と一回も言ったことがない人はいないでしょう。でも「普通」ってなんでしょう。
 神さまはわたしたち一人一人をお創りになりました。それぞれ違うものとして創造されました。まったく同じ性能を持つ量産可能な均質的な個体として製造したわけではありません。一人一人を「特別」なものとしてお創りになり、それぞれ別の仕方で神さまの栄光を現わすことができるようにされました。人は誰もが「特別」なんです。
 しかし、わたしたちは時にそのことを忘れ「平均的」であろうとします。また「普通」だからできない、という言い方もします。あるいは「普通」でないことを気に病み、自分を貶めたりもします。人間の集まりの中で、誰が普通か普通じゃないかということを言い出すと、その集まりはまとまらなくなってしまいます。教会も同じです。教会に集う一人一人が「特別」であり、それぞれが「別の」仕方で神さまの栄光を現わしています。「普通」を求めなくてもいいのです。それぞれの違う「神の栄光」を表そうとすることが大切なのです。

6/3

6/3 「アディアフォラ」     マルコ2:23~28

 「安息日は人のために定められた」というイエスの言葉は、イエスの活動の中心にあります。イエスは、様々な律法が本来どのような目的のために定められたかを思い出すようにとユダヤ人たちに迫ります。
世の中には様々な決まりがあります。そしてその決まりは、何らかの目的があって決まっています。教会の中にだって、目には見えないルールがたくさんあります。例えば目に見えない指定席。ろうそくの火をつける順番。礼拝中どこで十字を切るかなど、たくさんのことが決められています。もちろんそれぞれ目的があって決められていることなのですが、たまに「本来の目的が忘れ去られている」ことがあります。祭壇のろうそくは、かつて夜明け前に、暗い部屋の中で礼拝をするために必要でした。そして、主は世の光であることを大切にして灯されるようになりました。そしていつのころからか、ろうそくを点ける順番が定められ、厳格に守られるようになりました。順番が反対になっただけで礼拝が台無しだとまで思い詰めている人もいました。でも、本来の意味を考えた時、ろうそくは灯されていることが大切なのであって、別につける順番は大した問題ではありません。もちろん、所作の美しさや効率を考えた場合、点けやすい順序はあるでしょうが、それ以上のものではありません。「台無し」とまで思い詰めることはないですよね。ただ「点いていなかった」のなら、その場で「点ける」のでよいのです。
安息日も、本来は人や動物を休ませるためのものでした。「神さまも天地創造の時に休んだのだから、人だって休むべき」という単純な理屈でしたが、最初にこの決まりを定めた人たちが休むことの大切さを知っていたからなのかはもはやわかりませんが、休むことでリフレッシュでき、効率的に働けたのでしょう。しかしそれが時代が下るにつれ、その「休み方」まで決まるようになると大騒ぎ。煮炊きをせず、1キロ以上歩いてはいけないとか細かく定められ、それらの枝葉末節を守ることができないと、なぜできないんだと責められる。バカバカしい話ですけれども現実です。
 イエスはそれぞれの決まりについて本来の意味に立ちかえるように繰り返し教えています。わたしたちの今の生活だってそれが何のためなのかを考えないと、簡単に落とし穴にはまります。揉め事の種になります。「○○でなければならない」と怒られたことが、その本質なのかを考えてみる必要があります。本質は大事にしましょう。そして、それ以外のこと、変えても問題ないことを「アディアフォラ」と言います。自分が守るべきと決めていることを自分で守るのは良いことです。ですが、それは「アディアフォラ」ではありませんか? 他の人に「こうしろ」と要求できることでしょうか。実に、教会の中で決まっていることのほとんどは「アディアフォラ」です。ですから、それぞれの教会で、多くの人が納得する形で決めていく、または人それぞれで良いのです。そして決まっていることも、本質に影響しなければ変えていけないわけではありません。教会は「合議制」で形成されている人の集団なのですから。

5/20

5/20 「聖霊の息吹で燃やす」    ヨハネ20:19~23

 本日は聖霊降臨日。教会の誕生日と言われる日です。キリスト教的にはとっても大事な祝日なんですが、一部の教派での取り扱いを除くと正直なところ「ちょっと地味」な印象があります。
 聖霊はわたしたちの中に「息」として最初から与えられています。その上に洗礼の時にわたしたちにさらに注がれ、堅信によってわたしたちの中に留められます。わたしたちの中にある聖霊は、わたしたちを燃え立たせ、霊の望むとおりに神さまの方に向かって動かします。その動き方は人によって様々です。
 聖霊はまた「炎」としてあらわされます。旧くはモーセの目の前に現れた柴の中の炎のように、またイスラエルを導いた炎の柱として、そして聖霊降臨の日にイエスの弟子たちの上に現れました。また、エマオの帰り道、弟子たちの心を燃え立たせる「心の炎」として現れたこともあります。炎は燃えるために酸素を必要とするのはみなさん理科の授業で習いましたよね。息を吹きかけたり、団扇で風を送ったり、送風機なんかを使うこともありますが、火を絶やさないためには、空気を送り込み続けることが必要になってきます。送り続けていけば、理論上はどんどん温度は上がります。でも、送らなければ消えてしまいます。もちろん燃料が必要ですが、火をずっと絶やさず燃やし続けることもできます。そもそも人間は酸素によってエネルギーを燃やしていなければ死んでしまいます。だから誰もが自発的に呼吸するように創造されています。
では、わたしたち人間の「心の炎」を燃え立たせるためにはどうしたらいいでしょうか。大好物を目の前にしたとき、好きな人を目の前にしたとき、人間はテンションが上がって「心の炎」も燃え立ちますが、それってずっとは続きませんよね。しかも疲れてしまいます。何というか「燃料を足す」ようなものです。ですから、わたしはそういったことではなく「意識的に深い呼吸をすること」を「毎日少しずつ続けること」が「心の炎」を絶やさないためには大切だと思っています。燃料を足すことは、人によって合う燃料が違う上に、定期的に与えるのは難しいという方もいるでしょう。しかし「呼吸を深くすること」は、わたしたちの誰もが最初から授かっている「息」の力を強めることであり、神さまの息をわたしたちの身体の隅々にまで行き渡らせることです。だからわたしたちの「心の炎」は時に強く燃えたり、消えないように持続したりできるのです。
 聖霊降臨日にあたって、わたしたちに最初から授けられている「息」「呼吸」を今一度強めて見直し、「心の炎」を静かに燃え立たせて、信仰の道をゆっくりと歩んでいきましょう。その道はイエスさまとともに歩む道です。

5/13

5/13 「イエスの名によって」     ヨハネ17:11c~19

 いつの時代もそうですが、人や物の名前には意味が込められています。自分や子どもの名前を振り返って見ればわかると思いますが、その意味はとっても大事です。「イエス」という名前には「主はわたしの救い」という意味があります。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」とイエスは父なる神に願いました。
 わたしたちがお祈りする時、イエスの名前を唱えます。イエス自身が「わたしの名によって祈りなさい」と言ってくれたからでもあるのですが、もう一つ大事なのは、先ほどのイエスの願いです。父なる神がわたしたちを守ってくださるからこそ、わたしたちはイエスの名によって祈るのです。
 みなさんは、例えば食事の時や集会の時などに、人の前でお祈りする機会を持ったことがありますか。あまりないんじゃないかなと想像します。教会での食事や集会などはわたしがお祈りすることが多いものですし、聖公会の信徒はこういった「自由祈祷」をあまりしないし、「苦手だ」と超教派の集会などで言われることもありますから。ご家庭で、ご自分で、心の中で、はみなさん毎日お祈りをなさっていると思います。でも、このような「人と一緒にする」祈りは大切です。「すべての人が一つになるためです」 恥ずかしいとか、上手く言えないかもしれないということはあまり気にすることはありません。そのためにも「聖霊」がわたしたちの祈りを執り成してくれるからです。そして、その祈りを本当に聞いているのは、周りの人ではなく、父なる神なのです。そして、一番簡単なお祈りは、イエスの名前を唱えることです。「イエスさま、お願いします。アーメン」と祈るのが良いでしょう。なぜなら、イエスの名前を唱えることそのものが究極の祈りだからです。そして他にその日のその場面で一番神さまに伝えたいことを一つ加えるといいでしょう。
 イエスの名前を唱えることはとても大切です。自分の心の中で唱えるだけでなく、外に向かって人と一緒に唱えるということを大事にしていきたいと思います。そのサポートのため、わたしたちのところに聖霊が送られているのです。イエスの名前をたくさん唱えて、わたしたち自身が「主はわたしの救い」ということを意識するよう、努めていきましょう。

5/6 

5/6 「神さまが選ぶ」   ヨハネ15:9~17

 今日の福音書はヨハネによる福音書の「告別説教」と呼ばれる部分から選ばれています。最後の晩餐の時、弟子たちに多くのことを教えた場面です。
 司祭になって、様々な場面に立ち会う時に、ふと「これはわたしの意志じゃない。何というか、もっと大きなものに突き動かされているんじゃないか」という気持ちになることがあります。普段、わたしたちは自由意思によって「自分で」選択して行動しています。でも、そのつもりなのにそうじゃないような気分になることってないでしょうか。わたし自身は、仕事を辞めてから神学校に行く過程が特に、どうしてそうなのか、なぜ北海道なのかも含めて、「自分の意思」というより、何かに突き動かされたと説明した方が適当だと思えるのです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とイエスは言います。わたしたちは選んで、この信仰の道を進んでいるようでありながら、どこかで「神さまに選ばれて」ここに立っているというのです。皆さんの思いはどうでしょうか。そんな感覚をお持ちになったことがありますか。
 「わたしが」やる、「わたしが」選ぶ、という「わたしが」という姿勢はとっても尊く大切なものですが、時々それだけになると「神さまの助けがあったこと」「神さまの選びがあったこと」を忘れてしまいます。「わたしは自分の力で生きていける。何でもできる。」 うん、若いうちはそうかもしれません。でもね、どんなに自信たっぷりに見える人でも、「神さまの助け」がなければ、「神さまに選ばれて」いなければ、多くのことを成し遂げることはできないはずなのです。それは「運」とか「めぐり合わせ」とも言われることがありますが、わたしたちクリスチャンにとっては「神の助け」「神さまに選ばれた」ことなのです。「わたしが」ではなく、「神さまが」。「わたし」がするんじゃなくて「神さま」がする。そんな感覚を大事にしていきたいものです。

4/29

4/29 「聖霊の宮」    ヨハネ14:15~21

 今週の福音書は、ヨハネによる福音書から、イエスがわたしたちにしてくれた「聖霊を遣わす約束」が選ばれています。
 イエスが天に帰った後、わたしたちの所には「聖霊」が遣わされることになっています。確かに、イエスは使徒言行録の記事にもあるように、使徒たちの所に「聖霊」を遣わしました。だから、その聖霊はわたしたちの所にも遣わされているはずです。 「教会問答」では「教会」のことを「聖霊の宮」と表現しています。「宮」という字は、宮殿(王がいるところ)ないし神社・神殿(神さまのいるところ)を指す漢字です。聖霊のいるところが「聖霊の宮」となります。また、ヨハネによる福音書でイエスは自らの身体のことを「神殿」と表現しています。そう、「聖霊の宮」はわたしたち一人一人の身体でもあります。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」とイエスが言っている通り、わたしたちの中には常に「聖霊」がともにいるのです。また、「教会」は建物のことではなく、わたしたち一人一人が集まってできているものです。建物があっても、そこは教会ではありません。「聖霊の宮」であるわたしたち一人一人がいないのなら、教会は「聖霊の宮」にならないのです。
 でもどうでしょう、その聖霊の働きを、わたしたちは日々感じているでしょうか。「よくわかんない」というのが正直なところではないでしょうか。そのような状態になっていることをイエスは「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」と表現しています。本来、わたしたちは「聖霊」のことを知っているはずなのですが、日々の忙しさの中で、その働きを感じるのが難しいというのが現状ではないでしょうか。
 聖霊の働きを感じるのは、実はとても簡単です。なぜなら本来、わたしたちの身体には誰にでもその機能が備わっているからです。それは「息」です。わたしたちが無意識にしている「呼吸」です。聖霊とは神が人を創造した時に、鼻から吹き入れた息であり、イエスが弟子たちに聖霊を与えた時に吹きかけた息だからです。でも、残念ながら、わたしたちにとって「呼吸」というのは無意識でできることだからか、あまり呼吸に集中することはありません。無意識のうちにしている呼吸は「浅く」なることがあります。呼吸が「浅い」ことで、病気の原因になったり、精神的な不調を起こしたりすることにつながります。一日に一度、呼吸に集中することで、わたしたちの中の聖霊の働きが強められます。具体的には深呼吸。神さまに祈りながら、呼吸に集中する時間を持つことです。
 人は、神さまに向かって生きるように創造されています。もちろん、そんなことしなくたって生きてはいけます。でも身体がそう造られていないがために、無理が出てきます。わたしたちが気づいていなくても、身体に無理が生じているのです。だからこそ、聖霊の働きを豊かにするための呼吸が、神さまに祈る時が大切なのです。静かに息をしつつ、聖霊の働きを強め、神さまに向かって生きていこうではありませんか。

4/22

4/22 「イエス様の声」   ヨハネ10:11~16

 「イエスはよき羊飼い」 絵画などでもそうですが、教会関係では頻繁に使われるモチーフです。人間のことを「羊」になぞらえ、その先頭に立って導いていくイメージですね。教会の人々を指導する役割にあたる人のことを「牧師」というのも、ここから来ています。イエスさまの生きていた時代のユダヤの国には、遊牧生活をしている「羊飼い」がたくさんいましたから、とってもイメージしやすかったんでしょうけど、わたしたちのまわりで「羊飼い」を頻繁に見ることはまぁありませんね。一度じっくりその生活を、映像でも構いませんから眺めてみたいなと思っています。
 羊は群れやすい動物で、先導者に(しばしば最初に動き出した羊に)従う傾向があるため家畜化しやすく、少人数で多くの羊を管理することも可能でした。IQはウシと同程度で、他の羊や人の顔や声を記憶することができるそう。また、非常に憶病な性格で、ストレスに直面すると「逃げる」ため、慣れない人が群れを管理するのはとっても難しいそうです。熟練の羊飼いは、しばしば牧羊犬とともに「声」で群れを移動させます。
 最近はコミュニケーションを「メール」とか「SNS」などで取ることも増えました。でも、その代り、特に子どもたちの間でトラブルが増えたように思います。人間が人とコンタクトを取る場合、直接会っているとたくさん情報がありますよね。「表情」「雰囲気」「声」「言っていること」「態度」などなど、たくさんの判断材料があるコミュニケーションです。それが電話になると「声」と「言っていること」くらいしか情報が無くなり、メールなどになってしまえば「言っていること」だけしかありませんから、判断するための情報が極端に少なくなり、その辺がトラブルの原因なんじゃないかなと思っています。その中でも「声」というのは実は結構重要なのかなと思います。たとえば同じあいさつの言葉「おはよう」でも、声の調子で結構相手の状況が判断できたりすると思いませんか。「声」って人を元気づけることも、落ち込ませることもできますよね。街を歩いていて聞こえてくる元気な声に、こちらも元気をもらったというようなことがありませんか。
 イエスさまも、わたしたちに向かって「声」を何度も発しています。決して大きな声ではありません。小さくささやくような声ですから、周りの音にかき消されてしまいそうです。でも、確かにわたしたちのところに届いています。イエス様の声は、熟練の羊飼いのように、不思議と通り、わたしたちを導いてくれます。でも、パニックになってしまったり、他のことにとらわれてしまったりしていたら声は聞こえません。静かにその声を待つことが必要です。その声を聞く時というのは、今、この礼拝の時です。イエス様の声が、この礼拝堂に響いています。だからこそわたしたちは、毎日曜日、この礼拝堂に集い祈りのひと時を持つのです。

4/15

4/15 「心の目を開いて」   ルカ24:36~48

 イースターから2週間が過ぎ、本日の福音書も復活のイエスが弟子たちの所に現れる場面です。亡霊かと恐れる弟子たちと「恐れることはない」というイエスの様子が描かれます。ただ弟子たちと喜び合うだけでなく、イエスは弟子たちの「心の目」を開き、彼らに対して聖書を紐解きます。最後に「父が約束されたものをあなたに贈る」と「聖霊」を弟子たちに遣わすことを言い現わします。
 「聖書」を読んで、みなさん「わかる」と思いますか。物語としての部分はストーリーも追えるし、けっこう「わかる」という感覚を持つことができるけど、詩篇とか預言書などの部分は正直なところ「ちょっとわからないところあるかな」という感覚なんじゃないでしょうか。え? 全然わからないって? そうですね、読めば読むほど「全然わからない」って思うこともありますね。
 みなさんはどのくらいの頻度で聖書を開きますか。毎日開く人もいれば、礼拝の時くらいしか開かない人もいるでしょう。教会に通っていない人は開かないですよね。では、どのようなタイミングで聖書を開くでしょうか。毎日決まった時間に開く人もいるでしょうし、まったく開かないという人もいるでしょう。でもなんとなく、「じっくり座って読む」という感じになるでしょうか。だからハードルが高いのかもしれませんね。横になってダラダラ座って読むというより、何となく読むときは背筋が伸びるもの、という感覚がわたしにはあります。イエスさまは弟子たちに聖書を悟らせるために「心の目」を開かせました。きっとその状態ならよくわかるのでしょうね。お話ももっとわかりやすくなるでしょうね。普段は自分の「心の目」が開いていないなぁと感じます。聖書を開いている時、たまに「あぁ、そうか、こういうことか」と感じるタイミングがあって、その時こそ「心の目」が開かれているのでしょうね。聖書に相対する時はいつも「心の目」が開かれている状況でありたいなぁと思います。そうすればもっと多くの人に神さまの素晴らしさを伝えることができるのに。でも、思い返してみれば、なんとなく「わかった」と思うタイミングって、聖書を読んでじっくり味わい、しばらく考えをめぐらせた後のことのようにも思います。
 「聖書」を読むとき、じっくり時間を整えて読み、読んだ後も別のことをしながらでも考えを巡らせる。そういう黙想的な時間が、わたしたちの「心の目」を開くのには必要なのだと思います。そして、読むとき「イエスさま、わたしの心の目を開き聖書の言葉を悟らせてください」と祈ることも大切です。毎日毎日忙しいからそんな時間取れない、と思うかもしれません。それでもなお、わたしたちにとっては「聖書が語りかけているもの」を知ることが必要です。なぜなら、わたしたちは弱く、「神の助けによって」様々なことを為しているからです。「礼拝の時以外開かないよ」というのは何の自慢にもなりません。どうぞ、神さまの言葉と少しずつでも日々向き合っていただきたいと思います。
 

4/8

4/8 「疑う心」    ヨハネ20:19~31

 復活日から一週間。今週の福音書は恐れて閉じこもる弟子たちのところに現れた復活のイエス、そして疑うトマスの場面が毎年必ず読まれます。
 「信じる」ってどんなことだと思いますか。ただまっすぐ「信じる」こと。確かにそうかもしれませんね。でも、聖書の中の「信じる」というのは、ただまっすぐなだけではありません。今日の朗読に示されたように「恐れ」そして「疑い」もあります。ヨナのように逃げ出す者もいました。そもそもペトロをはじめとした弟子たちは、イエスの十字架の時に一回逃げた者たちです。その信仰が讃えられたアブラハムやモーセだって、最初に神さまと話した時はしりごみしたり条件を付けていたりしていました。イエスさまだって十字架にかけられる前に迷いをおぼえています。ただまっすぐ「信じる」というのは、聖書の中でも珍しいと言えます。わたしたち人間もそうですよね。わたしたちの中の神さまを「信じる」心は、時に行きつ戻りつ、疑ってみたり迷ってみたり、条件付きで語ってみたりと、ただ「まっすぐ」進むことはほとんどありません。
 復活祭の後、必ずここが読まれるのはどうしてだろうといつも考えます。一つは、洗礼を受けたばかりの人たちのためなのでしょう。「迷ってもいい」「しりごみしてもいい」「時に疑ってもいい」 そうやって一歩一歩進んでいくのでよいということでしょう。後に教会を起こす使徒たちも、旧約聖書の族長たちも、迷いながら進んできたのですから。またもう一つは「もう自分の心が定まった」と思える人たちのためでもあるのでしょう。自分もかつて「迷い」「疑った」ことを思い起こすためです。一人一人の中にある「弱さ」に向き合うためでもあります。「トマス」はわたしたちの中にいるのです。そしてまた、迷い続けたり、何度も疑ったりする人たちのためでもあるでしょう。何度背こうとしても励まし続けて下さる神さまの心を現わしているのです。人は弱いものです。何度も迷います。間違えます。そして疑います。それでも神さまはそのたびに、わたしたちが閉じこもっているところにやってきて「あなたがたに平和があるように」と呼びかけてくれるのです。だからこそ、わたしたちは何度も疑うことができます。
 こうやって、神さまは様々な状況のわたしたち一人ひとりを支えてくれています。イエスの「あなたがたに平和があるように」という呼びかけに応えて、歩みだしていきましょう。

4/1

4/1 「恐ろしかった」    マルコ16:1~8

 イースターおめでとうございます。皆さんと一緒にイエスさまの復活をお祝いできることを嬉しく思っています。
 さて、今日の福音書はマルコから、イエスさまの復活の様子が読まれます。でも、この朗読を聞いていて「何か中途半端だな」と思いませんでしたか?他の福音書だと、復活のイエスに出会ったお話がいくつもは入っているんですが、イエスさまがお墓にいなかった。婦人たちは怖くて逃げた、というところで終わっているからです。マルコによる福音書は、この「恐ろしかったからである」で終わっているんですが、別にマルコがサボったわけではありません。わたしたちの習慣だと亡くなったら火葬にしますからあまり考えることはないと思いますが、お墓の中にあるはずの遺体が無くなるということはとっても怖いことです。驚いて逃げてしまうのも仕方がないでしょう。しかも内側から開けられたような形跡があるのでなおさらです。そしてその「恐ろしかった」ということが、マルコが一番伝えたかったことだからです。
 他の福音書でも、よみがえりのイエスに最初に出会った時、弟子たちは恐れていますよね。「本当にイエスさまだろうか」って疑っています。そして徐々に「本当だ」とわかると、喜びにあふれて力づけられていくのです。今日はエイプリルフールですし、「もしかして復活って嘘なんじゃない?」って思ってしまうかもしれません。残念ながら本当ですけど。
でも、想像すると少し怖いのが「復活」です。お葬式で、みんなで泣いてお祈りしてる時、お棺の中からむくっと起き上がってきたらどう思います? 喜びより怖さが先に立つんじゃないでしょうか。本当に生き返ったんですか? と医者に確認したりしそうですよね。式場は大パニックに違いありません。でも実は亡くなっていたわけじゃなかったとわかった時、初めて喜びがやってきます。「怖い」「恐ろしい」ということは、決して悪い事ではありません。特に未体験のことになれば、怖れの方が先に立って当たり前です。新しいことが始まる時、そこにまずあるのは「恐れ」ですから。
そこで恐れる婦人たちに白い長い衣を着た若者が言います。「驚くことはない」 神さまが「恐れることはない」と言っています。恐ろしくていいのですが、その恐れに、おずおずとでも向き合っていく姿勢が、人の生き方として求められています。そのためにイエスさまがわたしたちに付き添っています。復活したイエスさまはいつでもどこでも、わたしたちを支えてくれます。だからこそ、ちょっと怖いですけれども、新しいものにむかって、漕ぎ出していきましょう。「恐れることはありません」。行きましょう。

3/25

3/25 「十字架につけろ」   マルコ15:1~39

 復活前主日の日曜日。受難に向かうイエスがエルサレムに入場した記念と、今週の「聖週」をおぼえる日です。福音書はマルコによる福音書から長い朗読、イエスの受難の様子が読まれます。
 最近のテレビの報道を見ていると、ちょっと気になるところがあります。何というか「こんなところまで追いかけて行ってコメントもらわなくても・・・」と思うところがあるんです。下手したら被害者・加害者に関わらずその友人親戚まで追いかけ、コメントにちょっとでも変なところがあったら突っついて。ワイドショーとか「見るに堪えないな」と思うことが多々あります。ひとたび「こいつが悪い」と見るや全員で叩くというのは、どうも好きになれません。
 イエスが裁判を受けた時、群衆たちは「十字架につけろ」と叫びました。祭司長たちが「扇動した」とありますが、よく考えればわかることなのに簡単になびいてしまうというのはどうなのだろうと思います。でももし、わたしがこの場にいたらどうだっただろうと考えると、多分簡単に流されていたんじゃないかとも思います。ある程度周りの雰囲気が固まっている時に、それとは違う意見を言う、あるいは行動を取るというのはとても勇気のいることです。「わたしは十字架につけろ」と言わない、と思っている人は、少し自分を問い直してみた方が良いように思います。ある時、幼稚園の先生がクラスの子に「どうしてみんなが一つの方向になろうという雰囲気なのに水を差すのか」と一人の子どもを責めているのを見て、わたしはビクッとしました。その場で止めると、その先生を悪くしてしまうことになりますから何も言わずに見ていました。どんな状況か詳しくはわかりませんし、もしかしたら本当にわがままだったのかもしれませんが、一つの方向に向くという同調する力だけでなく、自分の意志表示をはっきりする力がその子には備わりつつあるところだったのだろうと後で感じました。そして、下手したらその芽を摘む行為に加担してしまったのかなと、悔やんでいます。その子にとってはその時、自分の知っている全世界が敵に回ったように見えたことでしょう。
 イエスの「受難」というのは、苦しいものです。映画「パッション」を何回も見るのは心が折れそうになります。ですからわたしたちが無意識のうちに避けてしまうのだと思います。「十字架につけろ」という言葉を読む時、一気に読んでしまいそうになります。でも、この「十字架につけろ」という言葉は、わたしたち一人一人の口から放たれた言葉でもあるはずです。今週1週間は、イエスの受難の記念です。「復活」の喜びは、「受難」の苦しみを通してしかたどり着くことができません。ですからわたしたちは古来より「大斎節」を「聖週」を守ってきました。「十字架につけろ」という言葉は、わたしたちに改めて自分を問い直させる言葉です。今週は、その言葉にしばらくとどまってみてください。イエスの十字架を見つめ、この聖週を過ごしていきましょう。

3/18

3/18 「一粒の麦が」    ヨハネ12:20~33

 大斎節も半分を過ぎ、来週はいよいよ棕櫚の日曜日。そして聖週へ突入します。今日の福音書はヨハネによる福音書から、「一粒の麦」の話が読まれました。「一粒の麦が死ねば、多くの実を結ぶ」 イエスが自分を「麦」にたとえて言った言葉です。種をまくと、その種は無くなってしまうけど、多くの実ができる。創造の神さまの不思議なみ業です。
 様々な場所で、何かを始めようとすると必ずと言っていいほど否定的な意見がでますし、「やったことがないからできません」という拒否にあったりするものです。今、幼稚園は認定こども園に変化しようとしていますが、職員は新しい園舎を見ても期待よりも不安の方が大きいようで、打ち合わせをしていても「難しい」「大変だ」という意見の方が多いように感じます。教会でもそうかもしれませんね。「今までこうやって来たから同じようにやってください」と言って来られた人のなんと多い事か。
 教会も、幼稚園もそうですが、わたしたちの社会の営みと無関係ではいられません。「こども園」になったことで、今まで以上に様々な困難を抱えた家族が通うようになっています。教会もそうです。様々な困難を抱えた方、特に精神的な病を抱えた方が救いを求めて教会の扉を叩くのは当たり前の光景になっています。「泊めてください」「住み込みで働かせてください」と言って来られる方はこの時期かなり多いです。教会は正しいところだからそういった人は来てはいけないと言いますか? そんなわけにはいきませんよね。わたしたちの一つ一つの小さな働きこそが、世界を「神の国」に変えていくのです。ですから、わたしたちが、「教会」が、今の社会に合わせてやり方や活動を柔軟に変えていくことができなければ、世界が「神の国」に変わっていくことはありえないでしょう。そんな時に「やったことがないから」「今までと違うから」、「できない」ということに意味はあるでしょうか。わたしたちが何かの事態に直面した時、「やる」しかないということはよくあることです。
 わたしたちの中には多くの「種」が眠っています。それは蒔かれなければ目を出すことはありません。一生気づかないものもあります。「やったことがないから」と躊躇していては、その「一粒の麦」はそのままです。「行動」という「種」は、播かれることで芽を出して、やがて実を結びます。そこまでの道は神さまが整えてくれます。イエスは言います。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」 わたしたちは洗礼によって、イエスに仕える者となっています。イエスさまの指し示した道を歩みつつ、この世界を少しでも「神の国」として整える「行動」に勤しみたいと思います。

3/11

3/11 「何の役にも立たないでしょう」   ヨハネ6:4~15

 本日の福音書はヨハネから5千人の給食の話。すべての福音書にある、とても重要な話です。どの福音書も大筋では同じですが、少しずつ細部が違います。
 教区の青年たちと話している時、おもしろいことに気が付きました。それは、彼らが色々な事を「役に立つ」「たたない」で判断していることが多いということです。例えば「古文とか漢文なんか勉強したってなんの役に立つんだよ」とか言うんですね。考えてみれば自分も少し、そういう考えをしていた時期があったなと思います。でも、今になって思うことですが、人生ひょんなことで役に立つことがあると思うことがあります。語学なんかはその代表でしょうかね。「鶏鳴狗盗」の故事にもあるように、どんな変な技能でも、どんなに変な人でも「役に立つ」タイミングは存在するということです。この年になってリコーダーを吹くとは思ってなかったです。またこういう言い方をすると語弊があるかもしれませんが、今幼稚園で、出会っている子どもたちのしていることって、なんの役に立つのかよくわからないこともたくさんあります。役に立つと思える英語だって、一生使わない人たちもいますし。五つのパンと二匹の魚を目にしたアンデレはイエスに「これっぽっちじゃ役に立たない」と言います。しかしイエスはそのパンとぶどう酒を取り、五千人もの人々を食べさせることができたのです。
 今の世の中は「役に立つ」「立たない」ということをものすごく大事にしているように思います。わたしたちの心にもそれは少しずつ食い込んでいます。教会ではいつも何かをする時お祈りしてから始めるように言っていますが、やっぱり皆さん忘れますよね。聖書を読むのは大事ですと言っていますが、今だけじゃなくて毎日読んでる人は、意外に多くないんじゃないかと思います。何もしていない時間ですから、どうしても抵抗があるのかな、とも思います。でも、そういう無駄に見える時間、無駄に見える人の配置、そういった「遊び」がわたしたちの生活を豊かにしています。神さまが与えて下さったわたしたちの生活に「無駄」なものはありません。神さまに委ねて、決して人間的な判断だけではなく、生活をしていきたいものです。そのための大斎節です。