日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

1/12

1/12 「喜びに満ちた信仰生活に向けて」   マタイ3:13~17

 イエスの誕生の後、少しの間ゆっくりしたのかと思いきや、イエスとその家族はすぐに旅に出るしかない状況に陥ります。天使のお告げで何とか難を逃れたものの、近隣の地域一帯の子どもたちが犠牲になってしまいます。12月28日の「聖なる幼子の日」は、その犠牲になった子どもたちを記念する祝日です。
 マタイによる福音書は父であるヨセフの役割が強調されています。つまり、イエス誕生に際しては「身ごもったマリアを迎え入れるように」という天使からのお告げがあったのはヨセフですし、今回も「エジプトに逃げなさい」というお告げがヨセフのもとに来たのでヨセフは自分の家族を連れてエジプトへ向かいます。そして最後に、「エジプトから戻ってもよい」というお告げがあり、ヨセフはやはり家族と一緒にユダヤの地に戻ってきます。イエスが小さいころの家族では「ヨセフ」の役割が大きかったのでしょう。一時的に避難して難を逃れた家族は、ナザレの地で暮らし始めます。
 今行っている何かをいったん止めるということは、今の社会からするとあまり歓迎されないことです。それこそ下手したら小学生の時代から「逃げるのか」とか「止めると負け癖がつくぞ」などと言って、何が何でもそのことを続けさせようとすることがあります。もちろん何事もずっと続けられればいいのでしょうが、意外と初志貫徹って難しいもので、わたしもずっと続けているようなことってありません。だからこそ、コツコツと続けていくことができる人が輝くのでしょう。
 しかし、わたしは何事においても時に一時退く、いったん中断する、こういうことは大事だと思うのです。もちろん「また戻ってくるために」という期待はありますが、別にずっと続けなくてもいいのだろうと思います。その人にとって必要なものは変わってきますから。イエスさまももしかしたら、赤ちゃんでありながら神さまの力でベツレヘムにとどまったまま何とかすることができたのかもしれません。しかし、ヨセフの導きによって家族とともに居を移して、自らを成長させられたのです。時に信仰にも同じことが言えます。ずっと、同じように続けるだけではなく、一歩退いて自分も周りも見て見るということは大切な事です。「一歩」引くのであって、「完全に」引くのではありません。一時的に逃れて、また戻ってくるのです。神さまは変わらず、いつもおられます。「引いた」わたしたちも目に留めてくださいます。時に「引く」ということを恐れずに、進みましょう。

1/5

1/5 「避難して、戻る」   マタイ2:13~15,19~23

 イエスの誕生の後、少しの間ゆっくりしたのかと思いきや、イエスとその家族はすぐに旅に出るしかない状況に陥ります。天使のお告げで何とか難を逃れたものの、近隣の地域一帯の子どもたちが犠牲になってしまいます。12月28日の「聖なる幼子の日」は、その犠牲になった子どもたちを記念する祝日です。
 マタイによる福音書は父であるヨセフの役割が強調されています。つまり、イエス誕生に際しては「身ごもったマリアを迎え入れるように」という天使からのお告げがあったのはヨセフですし、今回も「エジプトに逃げなさい」というお告げがヨセフのもとに来たのでヨセフは自分の家族を連れてエジプトへ向かいます。そして最後に、「エジプトから戻ってもよい」というお告げがあり、ヨセフはやはり家族と一緒にユダヤの地に戻ってきます。イエスが小さいころの家族では「ヨセフ」の役割が大きかったのでしょう。一時的に避難して難を逃れた家族は、ナザレの地で暮らし始めます。
 今行っている何かをいったん止めるということは、今の社会からするとあまり歓迎されないことです。それこそ下手したら小学生の時代から「逃げるのか」とか「止めると負け癖がつくぞ」などと言って、何が何でもそのことを続けさせようとすることがあります。もちろん何事もずっと続けられればいいのでしょうが、意外と初志貫徹って難しいもので、わたしもずっと続けているようなことってありません。だからこそ、コツコツと続けていくことができる人が輝くのでしょう。
 しかし、わたしは何事においても時に一時退く、いったん中断する、こういうことは大事だと思うのです。もちろん「また戻ってくるために」という期待はありますが、別にずっと続けなくてもいいのだろうと思います。その人にとって必要なものは変わってきますから。イエスさまももしかしたら、赤ちゃんでありながら神さまの力でベツレヘムにとどまったまま何とかすることができたのかもしれません。しかし、ヨセフの導きによって家族とともに居を移して、自らを成長させられたのです。時に信仰にも同じことが言えます。ずっと、同じように続けるだけではなく、一歩退いて自分も周りも見て見るということは大切な事です。「一歩」引くのであって、「完全に」引くのではありません。一時的に逃れて、また戻ってくるのです。神さまは変わらず、いつもおられます。「引いた」わたしたちも目に留めてくださいます。時に「引く」ということを恐れずに、進みましょう。

12/29

12/29 「イエス様を通して」   ヨハネ1:1~18

 クリスマスが過ぎて最初の日曜日、今日の福音書はヨハネから冒頭の部分が読まれます。毎年クリスマスの聖書箇所とほぼ同じ箇所ですが、後半の4節は被っていません。この被っていない部分に、この主日に覚えるべき大切な部分があるということができるでしょう。
今日は、最後の節に注目してみましょう。「いまだかつて神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とありますが、要するに「イエスさまが神さまのことを示した」ということです。確かに旧約聖書を通しても、神さま自体を直接見た人物はおりません。燃える柴だったり、ささやく小さな声だったりと、様々なものを通して神さまに出会うことはありましたが、神さま自体を見た人は誰もいないのです。そこで、神さまが送ったのがイエスさまで、それがクリスマスの出来事です。そしてそれ以来わたしたちはイエスさまを通して神さまのことを学んでいます。
わたしたちは学ぼうとする時、独学で学ぶより、最初は誰かを通して学ぶことが普通です。学校なんかその最たるものですよね。学校を通して、本当に色々な事を学びます。神さまについてもそれと同じこと。多くの人々がイエスさまを通して学んできました。しかし一方でどんどんイエスさまの生きてきた時代から遠くなってくると、イエスさまに直接学ぶことはなかなか難しくなりました。ですからわたしたちはさらに誰かを通してイエスさまのことを学んでいます。それは牧師だったり、教師だったり、あるいは信仰の仲間だったりします。ところが、当然教える方も学んでいる途中ですから、なかなかうまく伝わらなかったりするものです。わたしがいつも話をしていて思うのは、イエスさまのことを伝えようとしても、なかなかうまく言葉にならないことが多いなぁということです。イエスさまも様々な方法で人々にわかりやすく神さまのことを伝えようとしました。その多くのことは聖書の中に書かれています。だからこそわたしたちは神さまについて学ぼうとする時、教えてくれる誰かの話を聞くこともそうですが、聖書自身に目を落とし、学ぼうとする姿勢を忘れてはならないのです。聖書に学び、人に聞くことで、イエスさまを通して神さまのことを知ることができるのです。

12/22

12/22 「救いは信じがたいところから現れる」   ルカ2:1~20

 今日はクリスマスのお祝い。イエスさまのお誕生祝いです。ルカによる福音書はイエスの誕生から羊飼いたちが訪ねてくるまでの様子を描いています。聖誕劇を見ていると、いつものクリスマスだなぁと考えてしまいがちですが、よく考えてみると、クリスマスというのはたいそう不思議な話です。ありえない、と言ってもいいかもしれない。
 知らせを最初に聞いたのは「羊飼い」ですが、当時の羊飼いは町に定住して生活するのではなく、遊牧民でした。町に入るのはたまに生活に必要なものを買う時だけ。それ以外の時は羊と共に寝起きし、羊の食べる草を求めてあちこちに出かけていきました。町の住人達から見たら、よくわからない怖い人たちだったでしょう。そして、嫌な言い方かもしれませんが、動物と一緒に生活しているということは一種独特のにおいもしたわけで、町に入っても人々から歓迎されるとは言い難い人たちでした。また宗教的にも「安息日を守りなさい」という掟を守ることがほとんどできないため、信仰が深いとは決してみなされない人々でした。生き物相手の仕事だから当たり前なのですが、それよりも掟をきちんと守ることが重要視されていたからでもあります。おそらくですが、皇帝の住民登録だって彼らにしてみればどうしていいかわからないものだったでしょう。下手したらどこで生まれたかすらわからないかもしれません。彼らは「住民」とはみなされない人々でもあったのです。
 彼らの話を聞いた人々は「不思議に思った」と言います。それはそうでしょう。だって、そもそも羊飼いたちは町の一員ともみなされていない人たちです。そんな彼らが急に町に入ってきて驚くべきことを告げた、それは不思議でしょう。なんで彼らが「救い主」の話をするんだろう。それはわたしたちのところに来るはずじゃなかったのか。そんな思いもしたかもしれません。
 周りの人は不思議だったかもしれませんが、羊飼いたちには大いなる恵みでした。とてもうれしい出来事でした。「救い主の誕生」ということもそうでしょうが、何よりも「神さまが自分たちのところに来てくれた」「掟を守ることもできない自分たちのところに来てくれた」ということが嬉しい出来事だったと思います。「どうせ自分たちのところに神さまが来るはずないさ」「来たとしても裁かれておしまいさ」と思っているところに、天の大群と出会い「町の人々に救い主の誕生を告げる」という役割まで与えられたのです。喜ばないわけがあるでしょうか。
 神さまのみ告げ、救いの知らせというのは、もとより「わたしたちが想像もしないところ」や「信じがたいところ」からわたしたちのところにやって来るものだ、ということをクリスマスの出来事は教えてくれます。もしかしたらわたしたちの周りには、認めたくないけど、もう救いの知らせが来ているかもしれません。「不思議だな」と思うことも、わたしたちの救いなのかもしれません。神さまはいつも、驚くべき仕方でわたしたちを救ってくださいます。神さまに感謝。クリスマスおめでとうございます。

12/15

12/15 「あなたは何を見に荒れ野へ行ったのか」   マタイ11:2~11

 降臨節も3週目に入り、いよいよクリスマスまであと少しとなりました。今日の福音書はイエスと洗礼者ヨハネの話です。ヨハネは獄中からイエスに向けて弟子たちを遣わし、イエスはヨハネについて語ります。
 洗礼者ヨハネのところには、多くの人が洗礼を受けに行きました。しかし一方で「ただ受けに行った」とか、「受けに入ったけれども何も変わっていない」という人も多かったに違いありません。「みんなが受けるから」とか「流行っているから」というような感じです。だからこそイエスは少し辛辣な物言いで「あなたがたは何を見に荒れ野に行ったのか」と問いかけます。
 「みなさんはなんのために教会に来ていますか」と問われた時、何と答えるでしょう。「祈るため」「聖餐を受けるため」「神さまの力を感じるため」「信仰の仲間と励まし合うため」という言葉は模範解答でしょう。しかし実際にそう言っていながら、そのようになっているのだろうかと思う時があります。実際には「文句を言うため」だったり「何かを作るため」だったり「友だちと話すため」だったりするのかもしれないと感じることがあります。みなさんは何を見に教会に来ていますか。礼拝堂の揺らめくろうそくでしょうか。では何を見に行ったのでしょうか。清く正しい行いをする人でしょうか。教会は健康な人ではなく病人を招くところですから、教会に来ている人を見てもちっとも清く正しく間違いのない人はいないので失望するだけです。では何をしに行ったのでしょうか。教会が正しくあるために批判と提案をしに行ったのでしょうか。それならぜひ一緒に取り組んでください。自分はやらないけど人を動かそうとするというのは信仰者としての姿勢ではありません。では何をしに行ったのでしょうか。祈りに行ったのであるならば、どうして礼拝中に別のことをするために礼拝堂を離れるのでしょうか。(もちろん生理現象以外で)信仰の仲間と励まし合うためであるなら、どうして批判的な物言いが先に立つのでしょうか。教会に来ていることで、みなさん何か変わったでしょうか。
 イスラエルにおける荒れ野は、悪魔の住まう場所であり、石と低木ばかりで作物が育たない場所であり、水もほとんどなかった場所です。そこに人々は祈りに、預言者に会うため、そして神に出会うために出かけて行ったのです。そこで出会う神さまはわたしたちの耳に心地よい言葉を必ずかけてくれる存在ではありません。時に厳しいことを突き付けることがあります。教会は、現代の「荒れ野」です。わたしたちにとって厳しい環境でもあります。そこで神さまと出会うためにわたしたちは教会に行くのです。
 もうすぐクリスマスがやってきます。わたしたちのところに神さまがやってきます。そのためにわたしたちも備えましょう。ヨハネが呼びかけたように、まっすぐ神さまがわたしたちの心に宿ってくれるように、「荒れ野」で祈りつつ整えて待ち受けましょう。

12/8

12/8 「我々の父はアブラハム」   マタイ3:1~10

 降臨節も第2主日まで進み、今日の福音書は洗礼者ヨハネの言葉です。洗礼者ヨハネは、ユダヤの町で生まれましたが、町ではない荒れ野で生活をし、「悔い改めよ」という言葉を町に向かって投げかけました。人々が多くの地域からヨハネの住む荒れ野にやってきたと聖書は伝えています。「確かに自分の行いには悔い改めるべき部分がある」と感じた人が多くいたからなのか、「今はやりの人に話を聞きに行ってみようか」という軽い感じだったのかはわかりませんが、荒れ野でのヨハネの行動は多くの人々の胸を打ったのです。
 ファリサイ派やサドカイ派の人びともヨハネのところへやってきましたが、ヨハネは辛辣な物言いで応答します。彼らの中には「我々の父はアブラハムだ」という物言いで、ヨハネの警告に対して否定的な人がいたのでしょう。何が言いたいかというと、「わたしたちは正しいアブラハムの先祖であり、それだけで神さまはわたしたちを滅びにあわせることはしない」ということです。アブラハムの子孫である自分たちは滅びないから「悔い改める必要はない」ということです。これがちょっとおかしいのはみなさんお分かりですよね。アブラハムが義とされたのは、自分の行いを改めて、「神さまの言われたとおりに従う」という姿勢を示したからです。その後だって、神さまが示されることに応じて行動を変えていったからです。「悔い改める」というのは、「行動を変える」ということです。「悔い」ても「改め」なければ意味がありません。「自分を変えていく」ことに焦点が当たっている言葉です。神さまのみ言葉は誰の上にもやってくるものです。だから「自分たちだけは大丈夫」ということはありません。そして、この箇所が降臨節第2主日に読まれるのは、主の降誕を前に、わたしたち一人一人が自分の行いを改めて見つめ、神さまのみ心に適う行動に、自分を変えていくためです。それがクリスマスの大事な準備だからです。わたしたちはファリサイ派なのか、それともヨハネの警告に耳を貸す人々なのか、これからクリスマスまで思い巡らしてみましょう。

12/1

12/1 「自分の備え」   マタイ24:37~44

 教会の暦は今日から新しい一年に入ります。最初の福音書はマタイから「目を覚ましていなさい」というイエスの言葉です。いつ世界の終わりになるかわからないので、目を覚まして準備していなさいとイエスは言います。
 昨年の地震の後、幼稚園などの施設や教区事務所、各教会などで「災害時の対策」が見直されています。食料や水の備蓄や発電機等の配備も進めています。そもそも、様々な建物を建てる時、特に施設だと「避難経路」を考えたり、ハザードマップを確認します。「備え」は万全です。しかし一方で、避難訓練をしてみると、「モノ」は備えられていたとしても「自分」の準備ができていないことに気が付きます。とっさのときに動けるかどうかの保証がないのです。様々なものを準備しておくのは簡単ですが、わたしたち自身が備えていることは難しいものです。物を準備しているから大丈夫だと思ったら、いざという時使い方がわからなくて役に立たなかったという笑い話があります。また、幼稚園や保育園で避難用のカートに赤ちゃんを乗せようとしたら、初めて見る者に怖がって乗らなくて、結局抱いて避難しなくてはならなかったという悲劇もあります。
 イエスは「日常」の生活を例に出しながら「目を覚ましていなさい」と繰り返します。畑にいた男と臼をひいている女が一人ずつ連れ去られますが、連れ去られるのが良い事なのか悪い事なのかよくわかりません。ですが、どちらにせよ「目を覚ましていなさい」「備えていなさい」ということであれば同じことです。日常が同じように続くにせよ、違う場所に行くにせよ、わたしたち自身の備えができていれば問題はありません。
 イエスが再び来られることは、わたしたちの誰もが知っていることです。けれどもそれがいつなのかというのは誰にもわからないことです。わたしたちに必要なのは、わたしたち自身の備えです。降臨節の始めにこの箇所が読まれるのは、主の降誕に向けて準備するためでもあり、主の再臨に向けてわたしたちの準備ができているかを今一度確認するためです。降臨節の様々なものがありますが、こういったものを万事滞りなく
 自分自身の備えとは何か。それは、今、準備一切なしで神さまのみ前に連れていかれても大丈夫なようにしておくことです。特に、わたしたち自身の「心の準備」をしておくことです。そして、様々な事、援助や奉仕などをしようとしているのなら、神さまに問われてから始めるのではなく、様々なことを為そうとしているのなら「今」始めておくということです。そして何より、日々の祈りについて今一度見直してみることです。わたしたちの「備え」をもう一度見直しましょう。「目を覚ましていなさい」

11/24

11/24 「受けることの大切さ」   ルカ23:35~43

 教会の暦は今週が最終週。福音書では、十字架上のイエスの場面が読まれます。人々の嘲笑の言葉を受け、十字架に一緒にかかっている犯罪人からも馬鹿にされる、イエスの最後の場面です。この後、イエスは「わたしの霊をみ手に委ねます」と言って息を引き取るのです。イエスはその活動の大半を「人に何かを与える」という行動をして過ごしました。病気の人を癒し、死んだ人を起き上がらせ、目の見えない人を癒し、人々を解放しました。3年間の公生涯の間、イエスは精力的に活動しました。しかし、最後の半日の間、イエスは様々なものを受けました。「受ける」と言った時、何かをしてもらうという、プラスのことだけではなく、こういった嘲笑やからかいなど、そういったマイナスのことも「受けた」のです。しかもイエスはそのことから逃れようとすれば逃れられたはずなのに、そのままそれを受け止めたのです。
 わたしたちは皆、「受けるよりは与える方が幸い」というイエスの言葉を聞いています。だからこそ「与える」ということに躍起になっています。自分たちが「受ける」なんて屈辱的だと感じる方もいるようです。また、社会的にも「与える」ことができる人、その能力が高い人が尊ばれる傾向にあります。「できる」こと、「与える」ことに焦点が当たるのが今の世相です。
 一方で、世の中には「受ける」ことしかできない人たちが数多くいます。というより、一部の特別な人を除いて、「与える」と「受ける」を比べた時に、「受ける」ことの方が多い人がほとんどです。だって考えてみてください。あなたが赤ちゃんの時、「受ける」ことしかできなかったはずです。そして多分、わたしたちが死に近くなればなるほど、できないことが増え、「受ける」ことの方が多くなっていくはずなのです。ですから「受ける」ということこそ大切にされねばならないのです。上手に「受ける」ことが大切です。全員が「与える」だけで、「受ける」人がいなければ社会は成り立ちません。また、「受ける」ことをあたかも負債のように考える人がいます。それは違います。「与えること」と「受けること」をお金の貸し借りのように考え、負債を取りたてようとしたり、負担に感じたりするものではありません。
 イエスは最後に「受ける」ことの模範をわたしたちに示されました。十字架上の苦痛をも「受けて」、天に帰られたのです。イエスは与えた後、最後に受けきったのです。イエスのようにはできないかもしれませんが、上手に、気持ちよく「受けること」を大切にして、新しい一年に入っていきませんか。

11/17

11/17 「こわいけどがんばる」   ルカ21:5~19

 世界中から色々なニュースが届きます。今年は特に、国内で災害のニュースが多かったですね。もちろん海外からも地震や台風や高潮などのニュースが届きます。トルコなど中東から戦争の話も聞こえてきますし、香港のデモのニュースも怖いですね。地球温暖化も深刻です。たくさんの暗いニュースを聞いていると、時々「世界はもうどうにかなってしまうんじゃないか」「終わってしまうんじゃないか」という、漠然とした怖れを感じます。もちろんいいニュースが無いわけじゃありません。色々な分野で、特に医療の分野では目覚ましい成果が出ていると聞きます。癌の治療や再生医療等々、希望を持つことができるニュースもたくさんあります。自分の周りに限ってみても、いいニュースもあれば悪いニュースもあります。しかも今は様々な媒体ですぐにニュースが手元に届くようになりました。届いたニュースを見ているだけでどんどん時間だけが過ぎていってしまうくらいです。感じやすい人は、悲しいニュースを見ているだけでどんどん悲しい気分になって、何となく仕事が手につかなかったということだってあります。しかしイエスさまは「こういうことがまず起こるに決まっている」というのです。
なるほど、確かにそうです。何も起こらないことはあり得ません。毎日毎日、どこかで何か大変なことが起こっています。調べようとすればいくらでもわかります。もしかしたら自分にも何か降りかかってくるかもしれないという想像は簡単にできますし、現に何かが降りかかってきて、戦わなきゃいけなくなっている人もいるでしょう。これから先のことを考えると不安になります。「不安」があるとわたしたちは焦ってしまいます。焦るとどんどん失敗してしまったりすることもあります。そんなわたしたちにイエスさまは「あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」と励まします。「どんな反対者でも、対抗も反論も出来ないような言葉と知恵を、あなたがたに授けるからである」と言います。
初めてのことに臨むとき、先行きが見えない時、わたしたちは「不安」です。もちろん「不安」だからということで、止めてしまうことも何もしないこともできます。「先行き」が不透明なら自分の努力が無駄になるかもしれないから「やらない」こともできます。しかし、イエスさまの言葉を考えると、「こわいけどがんばる」ことが、神さまのみ心に適っているのかなと思います。今できることをする。今挑んでみようと思っていることに挑んでみる。「こわいけどがんばる」ことで、不思議とわたしたちは何歳であっても、一歩成長できます。それが神さまの国へとつながっていくのです。「不安」に負けず、これからも歩んでいきましょう。

11/10

11/10 「すべての人は神によって生きている」    ルカ20:27,34~38

 わたしたちクリスチャンは「復活」を信じています。「復活」というのは、わたしたちも含めて、すべての人が「新しい命」に生まれ変わることであり、そこに「死んだ人たち」と「生きている人たち」の区別はありません。ですから教会は、いつも聖餐式の中で「天の全会衆」(要するに亡くなった人たち)と一緒に主の食卓を囲んでいます。
 わたしたちは普段の生活の中で、どのくらい神さまを意識しているでしょうか。「自分は神さまによって生かされている」という意識をどのくらい持っているでしょうか。それと同じくらい「自分以外の他の人も神さまによって生かされているのだ」とわかっているでしょうか。それは「教会の中の人も外の人も同じだ」ということに気が付いているでしょうか。まず「自分が神さまによって生かされている」ことが意識され、それから「自分以外の人も同じなのだ」ということにつながっていきます。
 わたしたちは、普段の生活の中で神さまを意識することが少ないと、気が付かないうちにどんどん自分中心の生き方になってしまいます。自分の考えの方が、神さまのお考えよりも先に来てしまうことが多いのです。もし、すべての人が神さまによって生きていることがよくわかっているのなら「自分の考えをはるかに越えた神さまの思い」を感じ取ることができるはずです。自分が納得するかどうかではなく「神さまがそうなさっているのだ」という、「神さまに委ねる」姿勢を取ることができるはずです。「自分以外の人が思い通りに動いてくれない」という意識を持ってはいませんか。それはいったい「誰」の思いでしょうか。自分が「神」になってはいませんか。「自分以外の人」は「神さま」によって動いています。もちろんあなたもそうです。ですから、その行動はわたしたちの感知することではなく、「神さまの思い」なのだ、と切り離すのが良いのです。自分が神さまに命じられたことを「まず」粛々と行うことが大切です。そのために、すべての人を生かす神さまに「一緒に」祈るのです。毎週、神さまに生かされていることを感じるために礼拝をするのです。