日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

3/29

3/29 「「もしできるなら」と「信じます」の間に」   ヨハネ11:17~44

 今日の福音書はイエスがラザロを生き返らせる場面です。ラザロの死を聞いたイエスは「彼は眠っているだけだ」と言い、彼の住んでいたベタニアへ向かいます。イエスは「ラザロをよみがえらせる」ためにベタニアへ行くのですが、会う人会う人「あなたがここにいたら彼は死ななかったのに」とイエスに言います。
 「もし○○だったなら」というのは、様々な場面で人間が想像することです。自分の過去のことで「あの時ああしていなかったら」とか「もしこの人に会わなかったら」という考えにまったく思い当たりのない人はいないでしょう。歴史的なことで、「もし織田信長が本能寺で死ななかったら」というような想像をもとにした小説なども書かれています。わたしたちの人生における選択や、歴史的な出来事は起こってしまってから動かすことは基本的にできません。また、死んだ人が生き返ることもありません。だからマルタとマリヤの姉妹が「もしイエスが近くにいてくれたら」と考えるのは普通のことです。しかし、相手はイエスです。そう、彼は神の子なのです。だからこそラザロはよみがえることになりました。
この出来事の中で大事なのはマルタとマリヤの姿勢です。最初は「もしイエスが近くにいてくれたら」という姿勢でいましたが、イエスと話して「主よ、信じます」という態度を明らかにしたことです。もし二人の態度が「もしイエスが近くにいてくれたら」というところから変化しなければ、きっとラザロは墓に眠ったままだったでしょう。ラザロは二人の信仰によって、よみがえったのです。
わたしたちはよく「もしも○○だったら」と考えます。しかし、信仰の姿勢として正しいのは「イエス様が助けてくれる」ことを「信じる」ことなのではないでしょうか。今、世界中が新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされていますが、イエスさまがわたしたちを助けてくれると信じましょう。多くの人が「なんとかなる」「神さまがなんとかしてくれる」と信じ、正しい行動を行うことで、これからの見通しも見えてくるのではないでしょうか。今一度、何度でも、「信じます」と祈り続けたいと思うのです。

3/22

3/22 「今できることをする」    ヨハネ9:1~13,28~38

 今日の福音書はイエスが生まれつき目の見えない人を癒す話。そしてそこから癒された人とファリサイ派の人との問答に移っていきます。イエスは「生まれつき目が見えないのはどんな罪があるからか」と問われて、「そうではない。神の栄光が現れるためだ」と答えています。そもそも「生まれつき目が見えない」ことを、本人や先祖に原因を求めるのはどうかしている、というのが現代の普通の考え方でしょう。しかし当時は「先祖に」原因を求めるのが普通だったということもあります。
 人間は何事にも原因を探したがるものです。このコロナウイルスのことも「中国が悪い」とか「アメリカの細菌兵器だ」とか、「国の対応が悪い」とか「検査が」とか「感染症研究所の陰謀だ」とか、いろいろなことが言われています。しかし正直なところ、今わたしたちのできる対応は、「手洗いする」こと「人込みに行かないようにすること」くらいです。原因を突き止めたとしても自分にどうにもできないこともよくあります。しかしながら様々なニュースを見ていると、ヨーロッパでアジア系の人に対して「あんたたちが持ち込んだから!」と言ったり、「アジア人お断り」という張り紙があったりということがあるようです。冷静に考えればそんなことは言っても意味がないし、誰か一人に原因があるわけではないことがわかります。でも、人は簡単に「わかりやすい原因」に飛びつくことも多いのです。
 今、コロナウイルスで世界は揺れています。教会でも「礼拝ができるかどうか」を真剣に考えています。「どうすればできるのか/やっても心配ないのか」を考えて進もうとしています。しかし、色眼鏡で見る人もいますし、ほかの地域/教派の対応を見て「なんでこうしないんだ!」という人もいます。でも、考えてほしいのです。世の中がおかしかったり、いろいろなことが起こったりするのは、誰か邪悪な人がいて世界を歪めているのではないということです。また、誰もが対応を間違う可能性があります。完全な対応が全員にできるということはないのです。だからこそ、今できることを冷静に見つめてするしかないのです。「原因」を探すことに意味がないことも多いのです。
「障がい」や「病気」の「原因」を外に求めるより、今できることをするのが先だということです。わたしたちは自分以外に原因がわかると何となく安心したような気になりますが、「原因」にされたほうはたまったものではありません。○○のせいだ、ということにとらわれず、今できることを行っていきましょう。

3/15

3/15 「何を信じるのか」    ヨハネ4:5~26,39~42

 本日の福音書はイエスとサマリアの女性の問答です。エルサレムからガリラヤに向かうイエスですが、サマリアを通ることになりその途中の一幕です。サマリアはかつての北部イスラエル王国の首都があった場所でもあり、ユダヤ教の分派であるサマリア教団の本拠地でもあるいわば因縁の地です。また「よきサマリア人」のたとえにもあるとおり、ユダヤとサマリアは仲が悪く、人の交流もほとんどなかった時代のことです。ですからイエス(ユダヤ人男性)が、サマリア人の女性に話しかけることなど普通は考えられない、という大前提があってのお話でもあります。イエスは彼女の「永遠の命の水」についての話をし、彼女はイエスを信じます。そしてその彼女の話を聞いたサマリアの人々もイエスを信じるようになった。つまりイエスの救いは、その信仰は、ユダヤ人サマリア人という区別をも越えるものであるということです。また、この話で大切なのは、最初に信じたサマリア人女性はたくさんの話をしたから当然としても「その周りの人々も彼女の話を聞いて信じた」ということです。
わたしたちは何かを信じるとき、確かなものよりも不確かな、しかもセンセーショナルなものを信じてしまう傾向があります。かつてオイルショックの時、トイレットペーパーの買い占めのニュースを見て「バカバカしい」と思ったはずなのに今また、「なくなるかも」という誰かの言葉を信じてトイレットペーパーの買い占めに走ったりします。テレビでやっている健康番組を信じて納豆や寒天がスーパーから消えたことも記憶に新しいでしょう。今は調べればいくらでも情報が手に入る時代です。しかもその情報は毎日のように更新されます。だからこそ「本当にそれを信じてもいいのか」ということに敏感である必要があります。そして何よりわたしたちはクリスチャンなのですから、テレビの有名人の言葉より、神さまのご意思をいつも感じる必要があると思うのです。
 わたしたちは「何を信じる」のかをいつでも選ぶことができるという、ものすごくよい時代、場所に生きています。国によっては国教が決まっており、信教の自由がないところもあります。独裁者を崇拝するしかない時代もありました。現代の日本でどんな神さまを信じることもわたしたちにとっては自由です。だからこそ、今、自分で選び取った「神さま」がどのようにわたしたちに道を示しておられるのかを感じなくてはなりません。
 大斎節というのは、わたしたちの信仰を確かめる期間です。しかも、現在は新型コロナウイルスの流行という新たな「荒れ野」の中にわたしたちはいます。礼拝が行えないことによる「霊的な断食」も強いられています。いつになく、わたしたちは自分の信仰について問われています。だからこそ今、わたしたちは祈りましょう。祈りは神さまとの対話ですから、その祈りの中で神さまが今、自分に何を求められているのかを知りましょう。そうすることで自分の信仰がきっと新たになるでしょう。そして、霊的な断食が明けた後は、神さまによって備えられた霊的な祝祭が待っています。この「荒れ野」を、神さまに与えられた乗り越えられる試練と信じ、祈りを続けていきましょう。

3/8

3/8 「霊の糧を与える」   ヨハネ3:1~17

 今日の福音書は、イエスのところにファリサイ派であったニコデモが訪ねてくる場面です。ニコデモはイエスに何度も質問をし、イエスはそこで「新しい命」「永遠の命」について語ります。
 わたしたちクリスチャンは、洗礼を通してイエスから「永遠の命」を与えられています。「新しい命」に生まれ変わったと言ってもいいでしょう。しかし一方でニコデモのようにいくつかの疑問を抱くものです。「もう一度生まれることは不可能じゃないか」とか「新しい命って言ってもなんも変わったように見えない」とか「永遠の命ねぇ。でも亡くなるじゃないか」とか、すぐにいくつもの思いが浮かんできます。
 なるほど、確かのそれらの疑問はよくわかります。自分の身に起きていることですらなかなか実感できないことですから。でも、わたしたちの中にある「霊」は、洗礼によって生まれ変わっているのです。「肉」としての体は滅びることもあるでしょう。しかし「霊」の体は、神さまによって新しく永遠になるのです。それは「独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得る」ように神さまがしてくださったからです。しかしながらわたしたちは日々の生活の中でそれをなかなか実感できません。なぜなら目に見えるようなわかりやすい変化、例えば色や体質の変化をあまり感じないからです。そしてその新しい命に生まれ変わった「霊」は、「霊の糧」を与え続けないとどんどん小さくなってしまうからです。
 しかし、わたしたちが落ち着いて自らの霊を見つめるとき、その変化を見ることができます。わたしたちが落ち着いて自らの霊の変化を見つけるのが、この大斎節の目的の一つです。具体的には祈ること、黙想のひと時を持つことです。同時にこれは「霊の糧」ともなります。「新しい命」「永遠の命」に対しての栄養です。現代の忙しい日々の中で生活に追われる時、わたしたちは自らの「霊」を見ることを忘れてしまいます。だからこそ今、この大斎節の時期にこそ、わたしたちは自らの「霊」に「霊の糧」を与え、自らの「霊」の変化を見つめることが必要になるのです。
 忙しくて祈ることができない、黙想することができない、という人もいるかもしれません。でも本当にそうでしょうか。もしかして、わたしたちは自分の霊を見つめるのが嫌なのでしょうか。そうなのかもしれませんね。それこそ悪魔の誘惑なのだと思います。自らの霊を見つめず、祈ることもしないのなら、わたしたちがせっかくいただいた「新しい命」「永遠の命」は枯れてしまいます。「霊の糧」をわたしたちの「霊」に与える大斎節を過ごしていきたいと思います。

3/1

3/1 「ただ主にのみ仕えよ」   マタイ4:1~11

 大斎節が始まりました。今日の福音書は「荒れ野の誘惑」。イエスが四十日四十夜の断食の後、悪魔から誘惑を受ける場面です。悪魔はイエスに3つの言葉で誘惑をし、それに対してイエスは聖書の言葉で対抗します。
 最初の誘惑は「食事」について。確かに食べ物がないと人間は生きていけませんが、ただ生きているだけでは意味がないのもまた人間です。例えば仕事をする時、自分のやることが明確になっている時とそうでない時では意欲に違いが出てきます。お腹と同時に心が満たされているかどうか、というのはわたしたちにとって大切なことです。それは何で満たすのかと言えば「神さまの言葉」。具体的に言うと「聖書」と「祈り」ですね。
 次の誘惑で、悪魔は聖書の言葉を借りながらイエスに「飛び降りてみよ」と問いかけます。それに対してイエスは「神を試してはならない」と、聖書の言葉で対抗するのです。「聖書」というのは、「どこをどう読むか」が大切になってきます。「聖書を使えば何でも言える」と言っている人もいるくらいです。「聖句」として切り取られている言葉でも、前後を読むと全然意味合いが違ってくることがあります。だからこそわたしたちは、自分一人で読むだけではなく、多くの人と共に聖書を読みます。古来より「礼拝」はそのために行われてきました。そして礼拝後の教会の交わりはその聖書の読み方について語り合う場でもありました。自分一人だと気が付かないようなことも、ほかの誰かが気が付いていることがよくあります。自分一人だと読み飛ばしてしまうような一言一言にしっかり目を向けている人がいます。だからこそわたしたちは教会に集うのです。
 最後の誘惑で悪魔は「繁栄した国々」を見せ、自分に使えるように促します。イエスはそれに対して「ただ主にのみ仕えよ」と退けました。「繁栄」というのはわたしたちにとって非常に大きい誘惑です。なぜなら、世界中のありとあらゆるものが、わたしたちに「繁栄」に目を向けるように促していますし、自分が「繁栄」することで、今自分が陥っている苦境を解決できるのではないか、と思いがちだからです。今、教会が小さくなってきている中で思うことは「実はそれぞれの問題は教会が元気だった時からあった」ということです。「繁栄」しているということは、様々な問題を覆い隠してしまうことにもなりかねないのです。だからこそ、どんな時も「主にのみ仕える」ことで、わたしたちの目は様々な小さくされている人々や、様々な問題になりかねないことに向くことができます。
 「聖書に聞くこと」「ともに集うこと」そして「主にのみ仕えること」この三つがわたしたちの信仰生活の基本です。悪魔の誘惑に惑わされず、教会として立ち続けるために大切なことは、すべてこれらから出ているのです。よい大斎節をお過ごしください。

2/23

2/23 「律法と預言者とイエス」  マタイ17:1~9

 毎年大斎節前主日にはこの「イエスの変容」の様子が福音書として読まれます。イエスと祈るために山に登った三人の弟子たちの前でイエスの姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合う場面です。
 大斎節は、わたしたちの信仰にとってとても大切な時期です。なぜなら、わたしたちの信仰の始まりとなった十字架と復活へ続く一連の出来事を記念する時期だからです。だからこそこの時期に自分の信仰を見つめなおすのは大切です。わたしたちの信仰はイエスから始まります。それは神さまが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」といったことがまず一つ。そして、今日の福音書にある通り、イエスが「律法」の代表であるモーセと、「預言者」の代表であるエリヤと語り合っていたこと、そのあとでイエスだけが残されたということは、イエスはその2つを受け継ぐ者であるということだからです。聖書を開いてみると、まず最初に「律法」につながる話があり、ユダヤの国ができた後、「預言者」たちが民に神の言葉を伝えます。そしてイエスが来て、イエスの言葉を受け継いだ使徒たちの活動が最後に来るのです。
 「これに聞け」という神さまの言葉があるのですから、わたしたちはイエスに聞きます。「イエスに聞く」というのは具体的に何をするのかと言えば、今残されているイエスの言葉である聖書の言葉を読み、それに関して黙想することです。そしてまた、その聖書を学ぶことです。大斎節はそのためにあるのです。
 わたしたち人間は、割と簡単に忘れる生き物です。学校で習ったことも、仕事の仕方も簡単に忘れてしまいます。だからこそ繰り返し学んで思い出し、自分の中にとどめるのです。「忘れちゃうから学ぶ意味はない、自分の感覚だけでいい」という人もいます。しかしそうではありません。なぜなら、イエス様に聞くことがたった一度や二度だけでいいはずはないし、洗礼を受ける一時だけでいいはずもないのです。「これに聞け」という神さまの言葉は、「これに(いつでも)聞け」ということです。聖書にいつも触れることで、わたしたちの信仰は日々新たにされていくのです。
 今週から大斎節が始まります。みなさんにとっての大斎節が、よい学びの時となりますように。そして、みなさん一人一人の信仰が、イエス様に聞くことによって強くされますように。

2/16

2/16 「人を生かす関係」   マタイ5:20~24,27~30,33~37

今日の福音書は「山上の説教」から続く、イエスの言葉です。イエスが「律法」について自分のスタンスをここで述べているのです。最初は「殺すな」ということ。現代の法律でもそうですが「殺す」という言葉の範囲は「実際に人を殺すこと」に限定されています。それで細かい法律が決まっている。しかしイエスは「殺す」というのはそれだけではないのでは、と問いかけます。例えば子どもたちの間である「いじめ」。特に無視をすることは「魂の殺人」なんて言い方をしますし、全員に無視をされるのはかなりきついものがあります。実際、幼稚園児でもそういうことをすることがあります。まぁ大人のいじめのほうがえげつないですが。「殺す」というのは実は結構広い概念であるとも取れますし、「殺さない」ことで「人と人との関係」が生きたものになります。
続いて「姦淫」。これも「実際に行動しなくても、考えるだけでもダメじゃないですか」と問いかけています。マザーテレサのものとされている「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから」という言葉があります。考えることが行動につながり、そしてそれは運命になるということです。確かにそういう側面はあると思います。だからこそわたしたちは慎まなくてはなりません。お互いが気を付けているということは大事です。
そして「誓うこと」。本来「誓い」というのは、日常生活であまり必要なものではありません。「誓い」を普段する習慣がわたしたちにはないと思います。わたしは「神様を信じます」と「司祭になる」という誓い以外にしたことがありません。当時の人々は結構安易に「○○に誓う」と言っていたんでしょうか。もしかしたら、そうでないと互いの信頼関係を保てなかったのかもしれませんね。人間がお互いに、神さまのもとにいるという信頼関係で結ばれているのなら、誓いは不要なはずです。だからこそイエスは「誓ってはならない」と言います。人と人は誓わずにいても、神さまへの信頼の中で過ごすことができます。
これらの「律法」に対しての態度は、イエスが言う「律法の完成」につながります。本来目的であった「人を生かす」ということにつながります。人と人とが生きた関係を神様への信頼の中で結ぶことが大切なのです。

2/9

2/9 「律法を完成する」   マタイ5:13~20

 イエスは「律法を完成するために来た」とわたしたちに厳しく言います。なるほど、イエスの律法への態度は厳しいものですし、聖書の中でも律法学者たちと揉めていることが多いのですが、よくよくその内容を見てみると、イエスは決して律法を否定しているわけではないということに気が付きます。
 イエスは律法に対して「なぜこの決まりができたのかの根本を考えなさい」という姿勢でいます。安息日であったら人が休むためだし、隣人のものを欲してはならないのは人間同士の関係性を保つためです。そして何より人が神さまの栄光を表すためです。なぜなら、神さまは「人を縛る」ために律法を作ったわけではなく、「人を生かす」ために作ったからです。ところが長年やっていくうちにその「根本」が忘れられてしまい、人を縛るものになっていくことがあります。
 教会にも様々な「決まり」のようなものがあります。いろいろな組織でもあります。そしてその中には「なぜそうなったのか」「どんな原因があったのか」が分からなくなっているものがたくさんあります。ところが、そんな状態なのにもかかわらず、それを変えることができないことが多くあります。そしてそれが人を縛ってしまうのです。しかしその「根本」を見るならば、変えていけることはたくさんあります。様々な決まりは「人を生かす」ためになくてはなりません。そうやって「根本」を見なおすことが、「律法」の完成に近づくことなのです。
 「律法」は、神さまがわたしたちに与えてくれた、神さまの決まりです。そしてそれは人を生かすために作られています。教会の様々な決まりも、人を生かすために変えていくことができるものも多いのです。そのことを忘れずにいましょう。

2/2

2/2 「神さまの出来事に出会う」   ルカ2:22~40

 今日の被献日は、イエスのいわば「お宮参り」。生後しばらくして、神殿にイエスと両親がささげものをするために行った時の出来事を記念した祝日です。イエスと両親はここでシメオンとアンナに出会います。
 シメオンもアンナも、神さまの救いを待ち望んだ信仰の篤い人でした。シメオンに対して「メシアに会うまで決して死なない」と聖霊のお告げがあったとはいえ、生まれたばかりの赤ちゃんを見て「この人こそわたしたちの待ち望んだ救い主だ」と確信できたのは、その信仰のおかげでしょう。だって「救い主」としてイメージするならやはり立派な大人でしょうから。アンナもそうですよね。現実に84歳まで生きてきているのだからなおさらです。様々な経験もして、いろいろな人に会って、でも「まだ何もしていない」赤ちゃんに対して「この子こそ救い主」という確信ってなかなか持てるものではないでしょう。
また、「会うまでは死なない」ということは、「会ったら死ぬ」ということでもあります。それに対して「主よ、今こそあなたはみ言葉の通り、しもべを安らかに去らせてくださる」と言えたのも、やはり神さまに対する篤い信頼があってのことでしょう。人間は誰でも死ぬものですが、「今から自分が死ぬ」ということを受け入れるのって、とても大変だからです。
そして、この場面に遭遇した両親にとっても、目を白黒させるような場面だったに違いありません。ただ行ってささげものをして帰ってくるだけのはずが、次々知らない人に子どもについて、しかも将来についてあれこれ言われる。驚きしかありません。しかし彼らはそのことを受け止め、イエスと一緒にナザレに帰って、彼を育てたのです。
 神さまはわたしたちに対して、非常に不思議なみ業を行うことがあります。わたしたちから見ても信じられないことが起こります。それをシメオンやアンナのように「神さまのことだ」として受け入れられるか、というのは、わたしたちの信仰にとって、とても大事なことです。神さまの出来事に出会ったとき、それを神さまのものとして受け入れる、そんな信仰を持ちたいものです。

1/26

1/26 「自分のこととして聞く」   マタイ4:12~23

 今日の福音書はイエスが宣教を開始した時の出来事。イエスは洗礼者ヨハネと同じく、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣教を始め、ガリラヤ湖畔で漁をしていたシモン・ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人を弟子にします。
 四人は、突然「わたしについてきなさい」と言われたのにも関わらず、イエスに従います。これは結構びっくりするような出来事ですよね。だって、自分が作業をしているときに突然「わたしについてきなさい」と話しかけられてついていくという場面は、どう考えても想像できないからです。「なんだろうこの人、怪しいね」と思ったり、「ついていって、わたしは何をするのですか」と聞いたり、すぐについていくということはありえないと思うのです。一応イエスは四人に「人間をとる漁師にしよう」と言っていますが「人間をとる漁師」って、そもそも意味が分かりませんよね。どうしていいものかと考えてしまいます。
 しかし一方で、わたしたちは、イエスの言葉は神さまの言葉である、聖書の言葉は神さまの言葉である、ということを知っています。そして、それが誰に向けられたかも知っています。だから、「人間をとる漁師」というのは、人々にイエス様の言葉を伝えるという大事な役目だ、ということがわかります。「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉が、その当時の人々に向けて語られた言葉だということも知っています。だから聖書を読んで、意味を考えることができるのです。
 しかし一方で、意味を考えることができるので、わたしたちはこの聖書の言葉が自分に響いてこないということはあろうかと思うのです。聖書の中の弟子たちに向けられた言葉を知っているがために、「わたしについてきなさい」という言葉が、「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉が、わたしたち自身にこそ向けられた言葉だということを忘れてしまいます。そもそも、信仰の始まりというのは、聖書の言葉が「自分に向けられた言葉だ」と思ったことがあるからこそ成り立っているものです。聖書の言葉というのは、現代を生きるわたしたちに向けても迫ってくる言葉のはずです。
 だからこそ、聖書は声に出して読まれるべきものです。礼拝で朗読されるのも、時々輪読会などをするのも、本来聖書は「読まれる」という前提で作られているからです。なぜならば、聖書は「神さまから、わたしに」届けられた「神さまの言葉」だからです。自分で黙読するだけでなく、誰かが自分に向けて読んでいるほうがそれを感じやすいからです。
 聖書の言葉を「自分に向けられた」神さまの言葉として読むとき、聖書はいつもわたしたちに違う顔を見せてくれます。イエス様の言葉が、いつも違う顔を見せてくれます。だからこそ「教会」は成り立っています。事業ではありません。神さまの言葉、そしてそれに対する信仰で成り立っているのです。「わたしについてきなさい」というイエスの言葉に従おうとする人たちによって成り立っているのです。イエス様の言葉を「自分のこととして」聞く姿勢は、わたしたちの忘れてはならないものです。

1/19

1/19 「自分はこのためにいるんだ」   ヨハネ1:29~41

 今日の福音書も洗礼者ヨハネとイエスの話。洗礼の後、道でイエスと行き合ったヨハネはイエスについて「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と自分の弟子たちに語ります。彼らは再びイエスに会ったとき、イエスの弟子としてイエスに従うようになりました。この場面の最初で、ヨハネはイエスに洗礼を授けた時のことを振り返っています。自分はその人(イエス)を知らなかったけれども、「この人に洗礼を授けるために洗礼を始めた」ということに気が付いたというのです。それが、神さまから命じられたことだと分かったというのです。
 考えてみればちょっと奇妙な話ですよね。わたしたちは普通に考えると、例えば仕事をするとき「こんなことがしたい」とか「こういうことが好き」ということから出発します。履歴書に「志望動機」を書く欄があって、エントリーシートなどではそれが大事だ、などと言われます。自分が出発点で、なんというか目標に向かってやっていくのが普通だと考えます。だから、この話は「順序が逆」なのではないかという気がします。
 ところが、社会に出ていろいろな人の話を聞いていくと、実はヨハネのほうが普通なんじゃないかという気がしてくるのです。友人は大学でわたしと一緒に東洋史学を勉強していました。普通の会社に就職していたのですが、ある時出会いがあって会社を辞めて再び学校に通い、今は整体師をしています。ほかの友人は学芸員を目指しましたが就職できず、たまたま入った会社で中国語の読み書きができるスキルを買われ、中国に長期出張して工場の責任者になりました。「こうなりたい」「こうしたい」という目標や、自分のしてきた勉強とは全然関係のないところで仕事をすることのほうが多い。自分の定めた行く先や意志よりも、偶然の出会いによってする仕事ってかなり多いような気がします。そしてなにより、そういった大事なことって、出会ってしばらく流されるままに行動しているうちにわかるんです。「ああ、自分はこのためにいたんだな」って。わたしは一度教会を意識的に離れていますが、戻ってきたのは、なぜかよくわからないけどそうしたほうがいいような気がしたからです。これは別に聖職になるとかそういうことだけじゃなくて、わたしたちの誰もがそういう体験に招かれているのです。そのことを教会の用語で「召命」と言います。神さまから与えられたその人の仕事です。劇的なものだけではありませんが、誰にでもあることです。
 洗礼者ヨハネも、最初はとにかく神様に命じられるままに過ごしていました。しかしイエスに出会って、彼の時は大きく動き出しました。わたしたちもまた、ヨハネのように、神さまから命じられることを行いつつ、安らかに信頼して待ちましょう。「その時」神さまはわたしたちにそっと教えてくれます。劇的なことだけではありませんが、わたしたちは確かにそれとわかるのです。