日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

1/31

1/31 「権威ある者として」   マルコ1:21~28

 今週の福音書はイエスがカファルナウムの会堂で教えた場面。イエスは「権威ある者」としてお教えになり、その権威で汚れた霊を追い出します。そして人々はその教えと権威に驚きます。
 「権威」と聞くとみなさん、どのようなものだと思いますか。例えば「ノーベル賞には権威がある」とか、今でしたら「ウイルス学の権威の○○先生」なんて言葉の使い方をするかもしれません。辞書によれば「優れた者として他人を従わせる力」もしくは「万人が認めて従わなくてはならないような価値の力」、二番目に「専門の技能、知識において、その方面で最高の人だと一般的に認められている人」という意味があるようです。「ノーベル賞」は前者、「○○先生」は後者でしょう。さて、それではイエスの持つ「権威」はと言うと、これは前者の意味にあたるでしょう。そしてその権威はどこから来るかと言えば「神さまから」ということになります。イエスは「学問的な裏付けがあったからではなく」「神さまによって」権威を与えられているのです。
 聖書に言う「神さまの権威」というのはどのようなものでしょうか。それは「言葉が現実になる」ということです。神さまの権威によって「言葉が現実になる」のです。この世界が想像されたのは「神の言葉」によってです。だからこそ「言葉が現実になる」ということが神さまの権威を表しているのです。イエスは悪霊に対して「黙れ、この人から出ていけ」と言いました。わたしたちにはわかりにくいですが、「権威」を持たない人が悪霊を追い出そうとする場合、「神さまは言っている「この人から出ていけ」」という言葉遣いになります。ところがイエスは「神さまからの権威」を持っていますから、直接悪霊に命じるのです。これは大きな違いです。教えるときも「神さまは○○と言っています」というのが普通ですが、権威を持っている場合「○○です」とはっきり言う、ということになります。そしてその言葉が現実になった、悪霊が出ていった、ということで「権威ある新しい教えだ」という反応になったのです。
 大変なことに、教会の聖職は「権威」を与えられています。それは「説教」をし、「聖奠」を行う権威です。そのしるしとして、「聖書」を与えられます。牧師がこの説教台から語る言葉は「権威ある言葉」なのです。牧師自体に権威があるのではなく、神さまから与えられた権威です。裏を返せば、牧師がどんな人であっても、誰であっても「権威」があることになります。この牧師だから従う、この牧師だから従わない、というのは神さまからの権威を否定することにもなりかねません。確かに、人に対しての好き嫌いはあるでしょう。そこに信仰の難しさがあります。しかし、「信仰」はその「好き嫌い」を乗り越えた先にあるのです。

1/24

1/24 「神さまからの誘い」   マルコ1:14~20

 今週の福音書は、イエスが最初の弟子たち、つまり4人の漁師たちを弟子にする場面。湖で網を打っているシモン・ペトロとアンデレ、陸で網を繕っているヤコブとヨハネに対して「わたしについてきなさい」と声をかけ、彼らが従う、そんな場面です。
今、世界は色々なものへの勧誘であふれています。テレビをつけてもラジオをつけても「これを食べてみませんか」「これを飲んでみませんか」「この商品を使ってみませんか」「こんな仕事をしてみませんか」「こんな学校に行ってみませんか」という広告があふれ、新聞などでも「この本を読んでみませんか」と勧められ、などなど、わたしたちは手を変え品を変えた「勧誘」に取り囲まれています。インターネットで必要な情報を探しているのに、「さぁ、ここをクリック」とばかりに広告が立ち上がり、余計な操作をさせられることもあります。本当に「勧誘」や「宣伝」の多い世の中です。
だからわたしたちはそういった「勧誘」に鈍感にならざるを得ません。だって、すべての誘いを受けていたら、自分がしたいことなんかまったくできません。お金だって足りません。生活自体が成り立たなくなってしまいます。だから、わたしたちは「選ぶ」という作業を毎日行っているのです。疲れてしまいますよね。
一方で、神さまは「宣教」という手段を取って、ご自分のことを広めようとしておられます。パウロは「愚かな手段」という表現をしましたが、これだけ様々な「勧誘」や「宣伝」があふれる時代において、なんとなく「うさん臭さ」が伴う、という意味で「愚かな」と言えてしまうのが怖いところです。しかし、わたしたちキリスト者は、神さまがこの「宣教」という手段をおとりになることを決めたので、「神さまのことをどのように周囲に伝えるか」ということを考えていかなければなりません。しかも、これだけ様々な「勧誘」や「宣伝」があふれる世界で、その「勧誘」や「宣伝」に対して鈍感になってしまっている人々に対して「わたしについて来なさい」というイエスの言葉を伝えなくてはならないのです。しかも、わたしたち自身も神さまの言葉に鈍感になってしまっていますから、難易度は上がっています。そもそも、一番近しいはずの自分の家庭の中でさえ神さまのことを伝えるのは難しいのです。
「神さまからの誘い(いざない)」は誰のところにも届いています。でも、自分も含めてみんな、いつの間にか鈍くなってしまっているのです。自分のところに来た、「神さまからの誘い」を思い出してみましょう。そしてそのことを伝えてみましょう。大丈夫、神さまはこんなにも鈍いわたしたちをも誘い出してくださいました。あとは信じて、進み、周囲にも神さまのことを伝えていきましょう。

1/17

1/17 「来て、見なさい」   ヨハネ1:43~52

 今週の福音書は、イエスがフィリポとナタナエルを弟子にする場面。先に弟子になったフィリポがナタナエルを誘い、彼も弟子になる場面です。フィリポは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と訝しむナタナエルに対して「来て、見なさい」と声をかけて誘うのです。
 「ナザレ」というのは、イスラエルという国からすれば「田舎」です。日本でいうと、東京から見たところの東北、青森あたりでしょうか。「ガリラヤ語」と揶揄されるくらいの方言が使われ、都会であるエルサレム周辺からは見下されていました。「そんなところから出るわけがない」とナタナエルが思ってしまったのも、ある意味ではうなずける話ではあります。しかしそうやって疑うナタナエルにフィリポは「来て、見なさい」と言葉をかけるのです。何事もそうなのですが、話を聞くのと実際に体験してみるのは違います。今でこそビデオだライブ配信だと、実際に触ってみる前に「見る」ことができるようになっていますが、イエスさまの時代ですから「見る」ことが一番早かったのは確かです。
スマートフォンの普及で、わたしたち誰もがそういった画像や映像に簡単にアクセスできる時代になりました。新型コロナウイルスで幼稚園内への保護者の立ち入りが制限されている状態ですが、行事の様子をビデオに撮って、インターネットで視聴することができるようになったり、教会では様々な講話や講演会をインターネットで配信することができるようになったり、礼拝も映像で参加できるようになったりと、「見る」ことのハードルはどんどん下がっているように思います。
しかし一方で「来る」「行く」ということのハードルは上がっているのかもしれません。自分が動かなくても周りが動いてくれることが多くなった今、そして新型コロナウイルスで移動が制限されている今、自分が移動する、実際にその場に行ってみることは「贅沢なこと」になりつつあります。教会の宣教においても「見る」ことはどんどん充実していますが、実際に「来る」「行く」ということへどう繋げていくのかが問われているように思います。そして、やはり映像で「見る」のと、実際にその場に「行く」のは違います。
しかし、わたしたちには一つ大事な方法があります。それは「祈り」です。わたしたちの救い主であるイエスに実際に「会う」のは、礼拝という場所であり、わたしたちの祈りの中です。何もせずにいて会いに来てくれることはめったにありません。でも大丈夫。わたしたちが祈り求めることで、わたしたちはイエスに会うことができます。もちろん、教会の礼拝のほうがより出会いやすいでしょう。イエスさまに、神さまに会いに行くための「祈り」を大事にしましょう。そして実際に「来て、見なさい」

1/10

1/10 「聖霊を感じる」   マルコ1:7~11

 今日は顕現日の後の最初の日曜日であり、イエスが洗礼を受けた記念の日でもあります。福音書もイエスの洗礼についての部分がマルコから読まれます。「イエスが洗礼を受けた」というのは、教会にとってもとても大事なことで、すべての福音書に「洗礼を受けたこと」が記されています。その時に「聖霊が鳩のように降って」くるのです。
 イエスは洗礼を「受けた」のであり、「授けた」のではないようです。聖書には特に記載はありません。ただ、彼の弟子たちは使徒言行録などを見ると洗礼を多くの人たちに授けています。「洗礼を受ける」ということは、「イエスと同じことをする」ということで、わたしたちキリスト者にとっての大きなしるしとなります。イエスと同じことはできないかもしれないが、イエスと同じしるしをこの身に帯びているのですから。そして、なにより聖霊がイエスに降ってきたというのは大切なことです。洗礼から堅信につながる流れの中で、わたしたちは聖霊をこの身に受けます。可視化されたものではないかもしれませんが、わたしたちのところにも聖霊は来てくださるのです。
 「そうはいっても聖霊がいることが実感できない」という人もいると思います。「本当にわたしのところにいるの?」という気になる人もいるでしょう。確かに、日々の暮らしの中で聖霊がわたしたちにも息づいていることを実感する機会ってなんでしょう。イエスのように「鳩のように」自分に降ってきたかのように可視化されたわけでもなく、「霊に導かれて」荒れ野に行ったわけでもありません。むしろ「悪霊」に苦しめられることの多い日ばっかりです。いや、神さま自体を感じる日のほうが少ない、という人もいるでしょう。しかしそれでも、神さまはわたしたちのところに聖霊を送ってくださっている、とわたしは声を大にして言いたいのです。それを実感する方法はいくつかあります。家の中でいいので、5分間くらいの短い時間、すべての音を止めてください。テレビ、ラジオなど。そして携帯電話のスイッチも切るといいでしょう。そして静かに床に座り、楽な姿勢をとって深呼吸してみてください。しばらく続けていると、その息の中に、聖霊を感じることができるでしょう。一回では難しいかもしれません。わたしたちは聖霊を無視する生活に慣れすぎていますから。でも、繰り返してみてください。わたしたちの中にいる聖霊は必ず答えてくれます。

1/3

1/3 「逃げるの大事」   マタイ2:13~15,19~23

 今日の福音書はマタイによる福音書から、エジプトへ避難してからガリラヤへ行ったという、イエス一家の動きの部分が読まれました。エジプトへ行く際もそうですが、そこから戻るときも神さまからのお告げがあってのことで、神さまがその一家を守ってくださっている様子が見て取れます。一方でこんなことも考えます。イエスさまは神さまなんだから「逃げたり」しないで、立ち向かってもよかったんじゃないか、ということです。
 何事も、物事に「向き合う」とか「立ち向かう」ということは称賛され、「回避する」とか「逃げる」ということはあまりいい印象を持たれません。でも、そうやっていろいろ続けてきて、疲れてしまっている人が世の中には多くいるのではないかと思います。なるほど、確かに「立ち向かう」「向き合う」ということは大切です。ところが、それを逆手に取れば、絶対に負ける、絶対に失敗するとわかっていて突き進んでしまう、突き進まされてしまうということが起こりえます。それを促す人もいます。自分を、自分の家族を守るために「逃げる」という選択肢はあるはずなのに、なかなかとることができないのです。
 この箇所を境に、聖書では父ヨセフが登場しなくなります。父ヨセフの一番の見せ場は「逃げる」ことであり、神さまのみ心に従うことでありました。「無理だ」というとき「一時的に退く」「逃げる」ということは必要なのです。イエスだって、最後の最後まで、「どうかこの杯を取り除けてください」と神さまに祈っていました。だからこそ、神ならぬわたしたちに「立ち向かう」ことが難しい時、一度退いて祈るときが必要です。そして、自分が立ち向かえると思ったとき、立ち向かう、それでいいのだと思います。

12/27

12/27 「恵みに恵みを加える」  ヨハネ1:1~18

 クリスマスが過ぎて最初の日曜日。クリスマスの祝祭の中にわたしたちはいます。クリスマスはわたしたちに希望をもたらすお祝いです。そして、その希望が何かというと、今日の福音書にあるとおり、「恵みの上に与えられた更なる恵み」です。律法の上にもたらされた「恵みと真理」なのです。つまり「律法」も「恵み」であると、ここでは想定されていることになります。
 「律法」と聞くとわたしたちは「なにか縛られる」という印象を受けがちです。しかし「律法」もまた、神さまからもたらされたものです。「律法」の一番大事な部分は「十戒」であり、その他は祭儀上の細かい指定が多く、実際に運用するにあたっては「解釈」が必要なものです。この辺は今の法律と一緒です。「十戒」が神さまから与えられた時と今とでは生活もそうですし、前提とする条件が全く違いますから。だからこそ「律法」が「恵み」になるかどうかは、その「解釈」次第と言えます。
 今、新型コロナウイルスの流行があり、多くのものが「縛られて」いるように感じます。でも、本当に「縛られて」いるだけなのでしょうか。今までと大きく変わる部分が出てきても、「神さまを信じる」という根っこの部分を大事にしながら、様々な方法を変えていくことってできないでしょうか。イエスが出てきたとき、多くの人が「大きく変わる」ということに戸惑いましたし、それが十字架につながった一因でもあります。しかし、恵みの上に恵みを加えるということは大きく変化することに他なりません。だからこそわたしたちは、変わることを恐れず、神さまのことを伝えるために進んでいきましょう。

12/20

12/20 「初めに言葉があった」   ヨハネ1:1~14

 クリスマスおめでとうございます。とはいっても、例年に比べて何となく寂しいクリスマスです。今年の2月ごろから始まった新型コロナウイルス感染症の流行は、わたしたちの生活を大きく変えました。今まであまり聞かれなかった「言葉」が聞かれ、逆にぜんぜん使われなくなった「言葉」もあります。また、今まであまり顧みられなかったようなことも、多くの人が気にしているように見えます。「三密」「PCR検査」「GoTo」「クラスター」などの言葉がクローズアップされ、わたしたちの「衛生」に関する意識が強まったので、今年はインフルエンザの流行がほとんど見られません。また、毎日マスクをする生活なんて、誰が想像できたでしょうか。教会も、かんたんに「集まって祈りましょう」「教会に来ましょう」ということができなくなりました。教会は一時的に、今まで持っていたやり方や言葉を封じられてしまったのです。流行の「言葉」と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、わたしたちの生活は、割と「言葉」に左右されています。「全集中」とか「○○の呼吸」という言葉がそこかしこで使われていますし、「密」という言葉をこれほど使ったこともありません。しかも、その状況と関係のないところでも使うのですから。
 「初めに言葉があった」とヨハネによる福音書は始まります。もちろんこれが創世記のオマージュであることは言うまでもありませんが、わたしたちの生活が多くの「言葉」によって成り立っていることもまた事実です。朝起きれば「おはよう」、寝るときは「おやすみ」などなど、わたしたちが生活していれば、言葉を発する機会というのは多いもの。今では言葉を認識していろいろなことをしてくれる機械も登場し、ますます「言葉」の重要性は増しています。では、このクリスマスに発信されるのにふさわしい「言葉」は何でしょうか。それは「おめでとう」という言葉であり、「イエスさまが生まれてすべての人が救われる」というメッセージです。教会が語り継いできた「言葉」は、この状況だからこそ発信されねばなりません。直接がだめなら、今はたくさん手段があります。加持祈祷が無意味だという人もいるでしょう。しかし、こういった「言葉」に救われる人もまた多いのです。だからこそ「おめでとう」と言い続けましょう。救いは「言葉」から始まるのです。「コロナウイルスの状況からも、神さまは確かにわたしたちを救われるのです」

12/13

12/13 「後から来る者へ」   マタイ1:6~8,19~28

 今日の福音書は、ヨハネから洗礼者ヨハネについての部分です。彼はイエスの前に出てきた人で、一説によればイエスは一時期ヨハネの弟子だったともされています。イエスに洗礼を授ける場面はすべての福音書に記されており、イエスという人を語るうえで欠かせない人でもあります。ヨハネのところには多くの人が訪れたといいます。しかも、彼の住んでいたのは荒れ野です。そんな場所までわざわざ訪ねていき、洗礼を受けたのです。聖書の中でのヨハネの発言は、かなり厳しいものが多く、しかも相手を選ばなかったようです。最終的にはヘロデにとらえられ、処刑されてしまうわけですが、その言動もあったからかかなり人気があったようです。しかし一方で、ヨハネは「光について証をする」「自分の後から来る人がいる」という姿勢を崩しませんでした。「その人に比べたら、わたしはその人の履物を解く値打ちもない」という言葉もまた、すべての福音書に記されています。
 「自分よりも優れた人がいる」しかも「その人が後から来る(後輩である)」というのは、実はなかなか持ちにくい感覚であると同時に、教会において大切な姿勢なのかもしれません。なぜなら、「後輩である」つまり「若い」とか、「教会に後から加わった」ということが、教会において軽んじられる傾向が見えるからです。「あなたはまだわかってないのね」「まだ日が浅いから」という信仰の諸先輩たちの姿勢に躓いてしまった人も多いのではないでしょうか。(しかも、それに心当たりがある方、心にしまっている方もまた多いのではないでしょうか) しかし、わたしたちにとって、自分の後から加わる人たちはみな「イエス」なのかもしれません。自分が優れたものと思っていないからいい、ということではなく、自分の後から来る人たちに敬意を払っていく姿勢が教会には大切なのです。ヨハネのように、後から来る者のために道を備える、そんな信仰をもって歩んでいきたいものです。

12/6

12/6 「福音の初め」   マルコ1:1~8

 みなさんは「福音」という漢字を見た時、何と読みますか。当然「ふくいん」と読みますよね。教会に通ったり、聖書を読み始めてしばらくすれば、この単語を「ふくいん」と読むことはすぐに察することができます。でも、教会やキリスト教に興味がなかったなら、絶対に知ることのない読み方です。「福」は「ふく」ですが、「音」は「いん」ではなく「おん」と読むことがほとんどだからです。では「福音」の意味をご存じでしょうか。これはクリスチャンなら当たり前に知っていることですが、「良い知らせ」という意味です。「福」というのは良いことで、「音」は音(おと)ですね。良い音、良い知らせ、なるほど、漢字の意味はまぁ、わかりやすいほうなんじゃないかと思います。マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まります。福音、良い知らせの最初、とか始まりということを最初に宣言しているのです。イエス・キリストの良い知らせがここから始まる、というわけですね。
人がイエスに出会う最初はどうでしょうか。多分、多くのことがわからず恐る恐る、という感じだと思うのです。初めてのことに触れるというのは怖いものです。それがたとえ「良き知らせ」だったとしても。いや「良い知らせ」だからこそ、にわかには信じられず、疑ったり試したりもするのではないでしょうか。教会に足を向けてみようか、いや、自分が行ったら迷惑になったりするのではないか、と思ったり、良く知らないからやめてみようかと思ってみたり、様々なことを迷いながら、初めて足を向けるのです。特に、新型コロナウイルスによる不安が蔓延している世の中で、頼る場所も術もないまま、足を向けようかと迷っている人もいるのです。
残念ながら、そうやって迷っている人たちに対して、迷いながらも教会に足を向けてみたり、聖書を開いてみたりする人に対して、教会は、聖書は必ずしも親切とは言えません。聖書の言い回しや、教会で使われる用語って、どうしても「一言さんお断り」のような雰囲気があります。「福音の初め」にたどり着くことすらできません。中に入ってしまうとなかなか気づきにくいんですけどね。
みなさんにとっての「福音の初め」はいつでしたか。どんなことを感じましたか。そしてそれがどう変わっていきましたか。それとも躓いてしまったでしょうか。多分みなさんは「神さまを信じる」ことに対して、様々な体験をしてきたのではないでしょうか。今、教会の周りには、教会に足を向けたことのない、聖書に触れたこともない、あるいはかつては触れたけど今は手放してしまった人たちが多くいます。その人たちに、今、このクリスマスを迎える時にどんな「福音の初め」を伝えますか。

11/29

11/29 「門番の役目」   マルコ13:33~37

 「目を覚ましていなさい」。聖書の中で繰り返される警告です。そしてイエスは、それは「門番」の役割に似ているのだ、と言います。「門番」という言葉は聞きますが、みなさん実際に見たことがあるでしょうか。そうですね、ビルなどの入り口に守衛さんがいたりすることもありますし、オートロックのマンションなどでは管理人さんがいて、ドアを開け示してくれたりしますね。あれも「門番」の変形ともいえるでしょう。今では監視カメラがその代役でしょうか。これならいつも目を覚ましているわけですから、安心ですね。
 中世の教会には「司祭」とか「主教」とかの役割のほかに、聖職の一部として「門番」(ゲートキーパー)という役職があったそうです。何をしていたのかと言いますと、礼拝堂の入り口に立ち、入ってくる人を確認してあいさつをしたり、席に案内したりする役です。今でいうところの「アッシャー」とか「受付係」みたいな仕事です。また、彼らの仕事はそれだけではありません。教会に足を運んだ人を「歓迎する」ことも大切です。教会の顔でもありますね。そして何より大事だったのが「外からの知らせを教会に伝える」役割です。
 イエスのいた時代、町には門があり、そこには門番がいて入ってくる人をチェックして、不審な人は入れないようにしていました。また、外からの知らせが一番先に知らされるのは「門」です。外からの知らせというのは、良い知らせだけではありません。戦争があった、強盗が出たなどの悪い知らせも「門」に届くのです。そして「門」からそれぞれの場所に知らされるのです。
 「目を覚ましていなさい」というとき、物理的にずっと起きていられる人はいません。でも、「門番」は、一人だけではなく何人もいて、交代で門を守っています。そして、門を守って入ってくる人を歓迎すると同時に、外からの知らせに耳を澄ませる役割をも交代で担っているのです。わたしたちクリスチャンは「門番」の役割も担っています。しかも、みんなで担っているのです。教会に足を運ぶ人を歓迎し、聞こえてくるさまざまな知らせに耳を澄ませる役割です。そのことを忘れずに降臨節を過ごしましょう。

11/22

11/22 「気がつく・気がつかない」   マタイ25:31~46

 今日の福音書は終末の審きが描かれた部分。ヤギと羊を分けるように、人々が右と左に分けられ、右にいた人たちは祝福され、左にいた人たちは審かれるという場面です。
 左右に分けられたのは「この最も小さい者」に対する振る舞いです。右の人々は“自覚のないままに食べ物をあげ、飲み物を渡し、旅人を泊め、服を与え、病気の人や囚人を訪ねたとして祝福され、左の人々はその逆で自覚のないままに審かれる、というのが今日のお話の大切な部分です。
 通常、わたしたちは人によって態度を変えます。むしろ、人によって態度を変えない人間のほうが珍しいのではないでしょうか。子どもには子どもに向けた態度に、親しい人には親しい人への態度に、職場では職場の役割に応じて態度を変えるのが当たり前です。普段合わない人には丁寧に振舞いますし、気の置けない友人同士でしたら砕けた付き合いになるでしょう。むしろ首尾一貫して対応が変わらない人のほうが変な人です。しかし一方で、偉い人、自分に大事だと思う人には丁寧に、そうでない人にはぞんざいに振舞う人もまた存在します。ここで右側に分けられた人たちは「人を助ける」ということを当たり前にしていた人たちなのでしょう。だから“いつだかわからないのです。もちろん左に分けられた人たちだって「人を助ける」気持ちがなかったわけではないでしょう。ただ、気が付かなかっただけなのだと思います。だからいつだかわからない”のです。
 助けが必要な人々はあちこちにいます。そしてわたしたちはすでに出会っています。たちどまって見まわしてみませんか。もちろん、わたしたちが必要な助けを与えられるかはわかりません。助けたとしてもうまくいかないこともあるし、拒絶されることもあるかもしれない。でも、神さまはわたしたち「人」に「互いに愛し合いなさい」と教えられました。「人」を「助けよう」とすることこそが「愛し合う」ことにつながります。神さまがわたしたちに与えられた「愛し合う」ことを大事にしたいと思うのです。