日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

11/15

11/15 「タラントンが足らんトン」  マタイ15:14~15,19~29

 今日の福音書は「タラントンのたとえ」 「タレント」(才能)という言葉の語源にもなった、誰もが一度は聞いたことのある超有名なたとえ話です。5タラントン、2タラントン、1タラントンをそれぞれ主人から預かった僕(しもべ)たちは、主人が留守の間にそのタラントンを生かして、1タラントンを預かった僕(しもべ)以外は、最初に預かったものより増やして返したことを褒められ、1タラントンを預かった僕(しもべ)は増やさなかったことでその1タラントンまで取り上げられてしまう、というちょっと理不尽なたとえ話です。「タラントン」というお金の単位は、一説には6000万円とも言われています。そんな多額のお金を預かったら怖くて埋めてしまった僕(しもべ)の気持ちもちょっぴりわかります。
 タラントンを生かしてタラントンを生む。「タラントン」を「才能」と考えるのなら、それは神さまから預かったものなのですから、自分だけで抱えていないで人のために生かす、というのは当然、と考えるのもわかります。ところでみなさん「タラントン」「才能」ってどんなものだと思いますか。スポーツや芸術的なものなど、一流になる人には「才能がある」と誰もが思うことでしょう。自分には才能があると思っていても誰かに負けて思い知る、なんていうのはよく漫画などでありそうな展開です。ある意味で「ごく限られた人」が持っている能力のように見えます。しかし、例えば簡単なことをお願いしても、「わたしには才能がありませんから」と断られてしまうことも多いのです。「タラントンが足らんトン」というわけですね。でも、イエスがここでたとえ話にしているのって、そんな特別な才能のことなのでしょうか。「僕(しもべ)」というのは奴隷のことですが、そんな才能のある人が奴隷になってしまうでしょうか。むしろ、自分が「主人」になるのではないでしょうか。
 イエスがここで言っている「タラントン」「才能」「賜物」というのは、特別な力のことではありません。「歩ける」「喋れる」「字が読める」「字が書ける」など、多くの人に備わっているものです。それだとすれば、ほとんどの人がかなりたくさんのものを持っています。それ以外にも「背が高い」「低い」なんてのもあります。わたしたちはみんな「タラントンが足らんトン」どころか「5タラントン」を預かっているのです。満ち溢れているのです。それはそのうちできなくなったりするかもしれません。でも、使えるときに使わなければ、それこそ埋めてしまったのと同じことです。みなさんの預かっている「タラントン」をどうしますか? 考えてみたいと思うのです。

11/8

11/8 「両者の差」   マタイ25:1~13

 本日の福音書は「十人のおとめ」のたとえ。10人のおとめのうち5人はともし火と予備の油を用意しており、もう5人はしていなかった。寝てしまうほど長く待ったけれども花婿が来たので迎えに行ったところ、予備の油を用意した5人だけが式を挙げることができた、というお話です。両者の用意したものはほとんど同じです。「目を覚ましていなさい」と聖書のあちこちに書いているのに寝込んでしまうなど、失敗も同じようにしています。ただ「予備の油」を用意したかどうかだけが両者の違いです。
 胆振東部地震から2年が経過しました。地震以降、様々な場所で耐震補強をしたり、食品などを備蓄したりと、様々な「備え」をしています。「予備のもの」を少し多めに置いておくところも増えています。でも、今の時代、予備がなくても不便はありますが、結構何とかなっちゃうので、「備えておくのは無駄」という考え方をする人もいます。
 何事をやるにも「最低限のライン」を探るほうが「効率がいい」という考え方があります。このたとえ話によれば、花嫁たちに必要なのは「ともし火」と「衣装」などの準備でしょう。両者とも最低限の準備はしていました。少なくとも問題があるわけではありません。しかし、その上していた「もうちょっと」の準備が明暗を分けました。教会の信仰にとって「このくらい」というのがあったとして「それでよし」とするのか、「もうちょっと」やってみようとするのか。そんなことにも置き換えられるように思えます。このたとえは「天の国」の話です。天の国に入るのに「これだけやっとけばいい」と考えるのか、「無駄」と言われてしまうかもしれないけど「もうちょっと」と天の国のために働くのか。そこが「両者の差」だったのではないでしょうか。

11/1

11/1 「幸いであれ」   マタイ5:1~12

 今日は諸聖徒日。すべての聖人たちの祝日であり、今まで亡くなられた人たちのことを偲ぶ日でもあります。特にわたしたちは今年、教会に関係する方を2人、天の国に送りました。そのことも覚えて祈りを続けていきたいと思います。さて、今日の福音書はマタイから「真福八端」。どういう人が幸いなのか、ということについてイエスが語ります。
 しかしながら特に最後に「わたしのためにののしられ、迫害され・・・」と続くわけですが、大きな喜びが後に待っているとしても、その罵られたり迫害されたりすることを、受け入れるのは難しいような気がするのです。「迫害される」という状況に人は弱いものだからです。最近のニュースなどもそうですが、必ずしも悪いわけじゃない人を周りが寄ってたかって叩くような状況も見られます。なんというか、ちょっとでも間違いがあればすべてが間違いだという感じで人を糾弾することが多くなっているような気がするのです。その中で「迫害を喜びなさい」と言ってしまったら、そうやって人を寄ってたかって攻めることを肯定しているかのような、そんな気になるのです。なるほど、間違えるというのはあまり褒められたことではないのかもしれません。でも、少し間違いがあっても、赦しあえるのが良いのだと思うのです。
 イエスはいったいどんな状況にある人たちにこの言葉を語ったか。それは、迫害の中にある人々に対してでした。しかも、貧しく、日々の暮らしにも困るような人たちでした。どうしようもない状況にある人たちに向けて、そんな大変な状況に置かれているあなたたちにこそ「幸い」が与えられなくてはならないと言ったのです。
 今、コロナウイルスの状況の中で、多くの「大変な思いをしている」人たちが出てきています。特に感染した人たちは大変です。しかも、「お前が広めた」と言われかねないような状況もあります。医療従事者や教育関係は大変です。公共交通機関の関係者も大変です。救いを求める人たちが「集まる」ことがしにくくなっています。多くの人が孤立しています。他にもたくさんの「どうしようもない」状況にある人たちがいます。だからこそ今、教会は「あなたたちは幸いである」(幸いでなくてはならない)と声をあげなくてはなりません。手を差し伸べなくてはなりません。コロナウイルスに立ち向かう多くの人たちが、幸いであるよう祈り続けたいのです。

10/25

10/25 「これだけやっとけばいい」   マタイ22:34~46

 今日の福音書は「もっとも重要なおきては何ですか」とファリサイ派がイエスに聞いた場面です。それに対してイエスは「神を愛すること」そして「隣人を愛すること」をあげるわけです。
 学校などで教えていると、このところ「何をやっておけばいいですか」という質問が多いそうです。最初は意図が分からなくて困ったそうですが、要するに落第にならない最低限の点数と勉強のラインはどこか、という質問であることに気が付いたそうです。これは部活などでもその傾向があり、「どの練習をやっておけばいいですか」と言われるのだそうです。勉強でも、その部活の競技でも最優秀を目指すのではなく、平均近くであればいい、それがもっとも「合理的な」生き方だということなのでしょう。一生懸命やって100点をとるなら60点でいい、というのはまぁ、ある意味で大事な考え方です。全部完璧になんかできませんし、何でも完璧を求めるのはしんどいものです。ただ、他の状況で打ち込むことができていればそれでもいいのだと思いますが、少し不安になる考え方のような気がします。
 「神さまに救われるためにクリスチャンとして最小限守るべきこと、行うべきことはなんだろう」という考え方はどうでしょうか。なるほど、何事にも「最低限の条件」というのはあるわけですし、それならそれでいいと思います。しかし、イエスの行いを見て、今までの教会の歴史を振り返るとき、その考え方でいいのだろうか、という気になります。「無理をして」「完璧に」とは思いません。しかし一方で、「わたしは最低限の義務を果たしているからあとは知らないよ」というのも違う気がします。わたしたちは教会に対して、信仰に対して、もっと本気で向き合うことが必要なのではないかと思います。イエスが言った「愛すること」、それは「それなり」のことでしょうか。神を愛し、人を愛することに力を注ぐ教会としてあること、そしてそういう生き方をすることを目指しませんか。

10/18

10/18 「神のものは神へ」   マタイ22:15~22

 今日の福音書は皇帝への税金についての問答。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉は多くの人が知っていると思います。この問答は「イエスの言葉尻を捕らえるため」のものだと書かれている通り、イエスをとらえたい人々の罠でした。それを頓智で切り抜けた、という解説がよくされますが、大事なポイントはそれだけではありません。よくよく考えてみますと、税金についてなら「皇帝のものは皇帝に」とだけ言えばいいはずです。だって、聞かれているのは税金についてなのですから。しかも、それだけ言っても、この話としては成立します。しかしイエスはさらに「神のものは神に」という言葉を付け加えているのです。
 当時の貨幣に刻まれていたのは皇帝の肖像のほかに、神話の神々や動物、花など、様々なものがありました。貨幣が統一されている現代からは想像がつきにくいですが、地域のローカルな図柄があったり、鋳造の担当者が変わると図柄が変わったりと、およそ500種類もの図柄があったそうです。ちなみにイスラエルの神殿に納める献金は、人の肖像が刻まれていない古い貨幣(植物や動物などの図柄)に両替しなくてはならなかったと言われています。だからこそ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉の意味があるのかなぁと思ったのです。しかし、「それじゃあイエスさまらしくない」とも思います。「皇帝の図柄の貨幣はローマ帝国への税金に、動植物の図柄の貨幣は神殿税に」じゃあ、今までと変わらない普通のことを言っているだけですから。
 肖像というのは、本人に限りなく似せて作ったものです。何を当たり前のことを言ってるんだと思うかもしれません。「似姿」という言い方もできますね。植物は植物の、動物は動物の「似姿」が貨幣に描かれています。この「肖像」「似姿」をキーワードにすると、大事なことが浮かび上がります。それは「人は神の似姿である」ということです。創世記のはじめ、神はご自身に似せて人を創造しました。ローマ帝国の貨幣は、皇帝に似せて作られました。「皇帝のものは皇帝に」が税金を納めることなら、「神のものは神に」ということは、神さまの似姿である人間がどうふるまうのが良いのか、ということになります。「神の似姿」として、「あなた」はどうしますか。まずは自分の周囲の世界を、神の国に少しずつ変えていくことから始めましょう。

10/11

10/11 「心の礼服」   マタイ22:1~14

 今日の福音書は「婚宴のたとえ」。天の国についてのたとえです。このたとえから読み取れることは2つあるでしょう。一つは「もともと招待していた人たちは「別の用事」があって来られなかったので、招待していなかった人たちを「誰でも」招いた」ということ。「誰でも」の中には善人も悪人もいた、ということは大事です。もう一つは「突然のことにもかかわらず、招きに応じたとしても準備が整っていないと追い出される」ということです。
 天の国に「誰でも」招かれるというのはとても大事なことです。もし選ばれた人だけなのだったら、天の国はずいぶん寂しいことでしょう。しかし一方で「準備ができておらずに追い出された」のは大事なポイントです。それは「礼服を着ていない」と表現されています。突然の招待ですから、なかなか準備が整わないこともあるのではないかと思いますが、ここで大事なのはそういうことではありません。王の招きに応じた、ということは、そこがどんな場所か、なにをするべきなのかはわかっていたはずなのです。「婚宴」の席、つまり神さまの招きに応じた以上、ふさわしい装いがあるということです。「装い」と言っても、教会に着ていく服の話ではなく、わたしたち自身のこと。つまり、わたしたちがキリスト者としてどのように振舞うか、振舞おうとしているのか、心がけているのかということです。信仰と向かう姿勢のことです。
 実際、わたしたちは今、すでに招かれて、宴の席についています。聖餐式がその宴です。多くの人が、天の全会衆も含めてその席についています。わたしたちはキリスト者としてどう装っていますか。自分の礼服、心の礼服を見直してみましょう。

10/4

10/4 「神の国はあなたたちから取り上げられる」  マタイ21:33~43

 今日の福音書は「ぶどう園と農夫」のたとえ話。先週の「二人の息子」のたとえ話もそうですが、神殿の境内で教えているときに祭司長や長老たちが論争を仕掛けてきたので、そういう人々に対して語りかけているたとえ話だということは大事です。彼らに対して何を言ったかというと、かつて神さまが人々のために預言者たちをたくさん送ったけれど、彼らの言うことを聞こうとせずに預言者たちをないがしろにして殺してしまい、神さまの言葉を聞かなかった。だから、神さまはあなたたちではなく、他の人々を救おうとしているんだ、ということです。これだけ聞くとかなり辛辣ですよね。確かに当時の神殿は、人々の救いを考えるというよりは、権威に凝り固まっているような状況があったわけです。イエスさまと仲が悪かったファリサイ派も、当時の神殿とはあまり仲良くなく「人々にどうやって律法を守ってもらうか」という目線から、活動を続けていたくらいです。ただまぁ、これは当時の状況です。今を生きるわたしたちは、この状況と、イエスの言葉から何を読み取ればいいでしょう。
 一つの見方は「わたしたちと教会」が、イエスに言われた「神殿や祭司長たち」と同じになっていないだろうかということです。教会も人が集まるところです。イエスさまが招いてくれているので、いつでも、誰でも来ることができるところです。本来神殿だってそうだったはずなのに、次第に変わってイエスが批判するような状況になってしまったのです。教会も時に、集まるメンバーが固定化してしまって、新しい人が入りづらいということがあります。自分では開いているつもりでもわからないということがよくあります。そうやって自分たちだけでやっていて、神さまのことを外に伝えないのなら、それはもう神殿と同じです。
 最後に「神の国はあなたたちから取り上げられる」という厳しい言葉があることを肝に銘じましょう。「新型コロナウイルス」によって、わたしたちは一時的に教会に集うことを断念しました。そして今、再開したけれどもその意味が問われています。どういう形で、新しく、いろいろな人に安心してもらい、神さまとのつながりの中に入ってもらうのか、わたしたちは問われているのです。

9/27

9/27 「最後まで」   マタイ21:28~32

 本日読まれた福音書は「二人の息子」のたとえ。父親に「ぶどう園で働きなさい」と言われた兄と弟の振る舞いが描かれた短い部分です。「はい」と返事したけど行かなかった弟と、「やだ」と返事したけど結局は行った兄が対比されています。
 子どものころからですが、しばしばわたしたちは、何か指示されたことに対して「はい」「Yes」という返事をするように仕向けられています。自分が本当にやりたいことでなくても、指示を出す人、例えば上司が言ったことに対して「はい」と返事しておいたほうが良いし、人間関係も壊れなくて済む、というように考えます。自分の思いを無視するとストレスがたまったりするものですが、それが処世術だ、と言われることもあります。また、時にこのたとえの弟のように「面従腹背」で、実際にやらないなんてこともあったりします。
 ところがおもしろいことに、実は自分にいいこと、例えば教会で「お祈りを欠かさないように」「聖書を毎日読みなさい」と日々発信していますが、多くの人がそれに対して「はい」というのではなく、「そんなこと言っても難しいよ」とか「牧師だったらできるけどわたしには無理です」なんていって、最初から「No」ということが多いような気がします。他にも「運動」だったり「食事」だったりと、自分にとって大事だとわかってはいるけれどもなかなかきちんとやらない、ということもたくさんあります。と思ったら、時々思い出したように「良いこと」に向かったりします。このたとえの兄のように。わたしたちは多くの場合、あべこべです。
 わたしたち人間にとって、神さまに生かされているということを感じるのは大切なことです。「体に、心に、いいこと」です。しかし、わたしたちはそれを知っていながら素直に従うことができない生き物です。聖書に書かれていること、そして人間の長い歴史がそれを証明しています。ですから何度でも、教会はみなさんに勧めます。聖書を読みましょう。祈りましょう。礼拝に出席して一緒に祈りましょう。みんなのために奉仕しましょう。そしてそれを自らができなくなるその時まで、前言を翻さず続けましょう。神さまを信じ続けましょう。今からでも、いつでも、神さまはあなたを受け入れてくれます。

9/20

9/20 「誰もが生かされる場所」   マタイ20:1~16

 今日の福音書は「ぶどう園と労働者のたとえ」。ぶどう園の主人が労働者を雇いますが、何時に雇われて行った労働者も1デナリオンの報酬だったことから、朝一番に雇われた労働者たちが主人に文句をつける、そんなお話です。聖書の中でも有名なたとえ話であり、様々な説明がされていますが、なかなかしっくりくる説明がないたとえ話ではないでしょうか。
 朝一番で雇用された労働者たちの言い分もわかります。丸一日、だいたい12時間働いた人と、夕方5時に雇われて1時間程度しか働いていない人たちが同じ賃金だったら、「え、なぜ」という気になるでしょう。もちろん主人が「契約違反をしたわけではない。全員にふさわしい賃金を払う約束をした。」と言っても納得がいかないのは当たり前です。一方で、もし自分が夕方5時に雇われた労働者だとしたら、その主人の姿勢に感謝しかないと同時に、どこか座りの悪い気がしたかもしれません。
 このたとえ話を「労働と賃金」の問題だと考えると理解ができないのは当たり前です。イエスが最初に断っている通り、これは「天の国」のことだからです。そうですね、今の世の中には働きたくても働けない人たちや、働くことが難しい人たちがいます。例えば病気の人たち、障がいを抱える人たちなど、仕事をするのに制約がある人たちがたくさんいます。もし、今自分の兄弟が病気を抱えているけれども、雇用してくれる会社があって、普通に働く自分と同じくらいの賃金をもらえているとしたら、「よかったなぁ」という気になるのではないでしょうか。「その社長に感謝しろよな」という気持ちになるのではないでしょうか。でも、よく知らない人だったら「うらやましい」とか「ずるい」という気になるのかもしれませんね。今の社会の仕組みだと、すべての人が満足に働いて、満足な報酬を得ることができる状態にない、というのはみなさん、よくわかることではないかと思います。しかし、「天の国」においては、誰もが自分の力に応じて働くことができる。誰もが暮らしていくことができる。天の国に入るのに能力は関係ない、ということなのです。そして、忘れてはならないのが、わたしたちは誰もが「できない」状況に明日にも陥る可能性があるということです。そうなってしまったとしても、イエスさまの待つ天の国では関係ないのです。そしてこの地上にも、できる限り多くの人が生かされる、そんな場所を実現していきたいと願うのです。

9/13

9/13 「赦さなくてはならない?」  マタイ18:21~35

 「おい、お前はクリスチャンのくせになんで赦さないんだ?」「クリスチャンは何でも赦すんだろ?」「クリスチャンはいいよね。何やっても赦されるんでしょ?」 なるほど、イエスさまの言う通り「赦し」というのは大切なのだと思います。しかし「何でも」「赦さなくてはならない」と考えると少し違ってくるような気がします。幼稚園ならいいんです。まだ。多くのことは「ごめんね」「いいよ」のやり取りでケリが付きますから。でも、そんなやりとりでケリがつかないことはたくさんあります。あなたは自分を殺そうとした人を赦すことができますか。多くの場合、これは無理だと思います。学校のいじめもそうですね。今でも足が震える地域がありますし、人がいます。わたしにはそんなことは無理だと断言できます。できる人はすごいなぁと思います。
 「イエスさまがそうしたのだから」、わたしたちはそれに倣おうとします。しかし、そうできたらいいと思っても完全に倣うことは決してできないものです。いいんです。それで。そんなことより、まず、わたしたちが神さまに赦されている、認められていることを感じるのが先決であるように思います。よく「クリスチャンなのだから赦してやれ」ということを言う人がいます。でも、その人はその「赦せない」でいる人のことを赦していないような気がします。自分の受けた傷が、まだ痛みを負っているときに赦すというのはかなり難しいものです。だって、その言葉が、表情が、声が、まだリアルに聞こえるから。赦すとかどうかよりも忘れたい、遠くに行きたい、そんな気持ちが強いのではないでしょうか。なるほど、誰もが赦されて生きるのが理想的だということはわかります。しかし、わたしたちはそう簡単にそこにたどり着くことはできません。でも、それでいいんです。赦せないならまず、その気持ちに寄り添いなさい。そこからしか始まらないのだと思ってください。完成品を求めてはいけないのです。

9/6

9/6 「教会は場所じゃない」   マタイ18:15~20

 「教会」と聞くと、多くの場合「礼拝堂」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。あそこの教会が好き、というとき、教会の建物、主に礼拝堂が念頭にあるのではないでしょうか。いやいやいや、牧師さんや神父さんがいることが大事だよ、という人もいます。結婚式場などの建物は「○○教会」という名前だけど教会じゃないよね、と言ったりもします。
 聖公会において「教会」が成立する最低限の要件は「教会委員が三人いること」、要するに「信徒が三人いること」です。教会の大きさ設備ではないんです。極端な話をすれば、人が三人集まって「ここが教会です」と宣言すれば教会として成立します。もちろん、教区会で認可を受けたり、信徒総会の議決だったりと様々なことはありますが、クリアしなくてはならない条件は「三人いること」だけです。イエスさまは今日の福音書の中でわたしたちに「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言いましたが、三人の信徒がいて、礼拝が定期的に行われている=祈りがあるということは、イエスさまがそこにおられるということです。だからこそそこに教会が成立するのです。
教会は「建物」でも「牧師」でもなく、「人の集まり」である、ということはわたしたちにとって大事なことです。立派な礼拝堂がなくても、家の一室で礼拝している小さな教会があります。牧師さんがいなくても、毎主日礼拝が行われている教会があります。逆に、立派な礼拝堂があっても、そこで祈りが行われていなければそこは教会ではありません。信徒がいなければそこは教会ではありません。教会とは「信徒の集まり」のことなんです。
今、わたしたちは危機に瀕しています。新型コロナウイルスは教会の基本である「集まる」ということを封じようとしてきています。教会が様々な制限を受けながらも礼拝を続けようとしているのは、集まること、祈ることが教会の基本だからです。だからこそ祈りを続けるのです。たとえそれが二人または三人だとしても、そこにイエスの名によって集まるのなら、それは一番小さな教会です。そうやって多くの人が多くの場所で(教会という場所に限らずに)「イエスの名による祈りのために集まる」ことができるならば、教会は大丈夫です。イエスの名によって、小さくても集まって祈ることを大切に、これからの道を歩んでいきましょう。