日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

6/29

6/29 冷たい水一杯  マタイ10:34~42


 イエスの厳しい言葉が並ぶ今日の福音書。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない」と言われると、ドキッとしてしまいます。教会で、「平和の祈り」や「平和のための集会」などが行われているので、イエスさまは“平和を愛する人”というイメージばかりがありますが、今日垣間見えるイエスの姿は、それとは全くかけ離れたものです。
 確かに、信仰を貫くということが、諸手を挙げて歓迎されるという状況に、今の世の中はありません。家族の中で自分だけが教会に来ているなんて場合に“何かカルトに入っているのではないか”と疑われることはままあります。また“キリスト教だけは絶対にお断り”なんて人もいます。さらに言えば、同じキリスト教の教会ですが、教派同士で激しく争っているところもあります。教会が(キリスト教が)もたらした平和もありますが、教会が(キリスト教が)もたらした戦争など、様々な悲しい出来事もあります。イエスの言う通り、地上に平和をもたらすために来たわけではない、という状況になっているとも思えます。
 イエスさまの生きていた当時も、信仰に入るということが、諸手を挙げて歓迎されるような状況ではありませんでした。少なくともローマ帝国の国教になるまでは。今とは違い、何事にも時間がかかる時代です。乗り物も馬くらい、通信手段は飛脚ですからやり取りに何か月もかかります。いくら親族でも遠く離れてしまえば何もできません。近くの人々と、折り合いをつけながらやっていくことは、どうしても必要でした。「遠くの親戚より近くの他人」という言葉もありますが、世界中がきっと同じようだったでしょう。また、旅をすることは危険が伴いますから、旅人を持てなす、世話をするということは、とても大切なことでした。旅の途中、疲れ切った時に立ち寄った町や村で、差し出される一杯の水は、その旅人にとって、どんなにかありがたかったことでしょう。その冷たい水一杯が、どんなに彼の心をいやしたことでしょう。
 現代において、旅人達が飢えてへとへとの状態でその辺を歩いているのを目にすることは、なかなかありません。水はいつでもコンビニで買えますし、食べ物もそうです。でも、少し見方を変えてみると、わたしたちの周りには今も、多くの旅人たちがいるのを目にすることができます。教会に訪ねてくる人がいます。何か悩みがあるのか、神さまに祈りたいと思ったのか、礼拝に急にいらっしゃったりします。そうやって、教会を訪れる旅人たちに、わたしたちは“冷たい水一杯”でも、差し出しているでしょうか。もちろんこの“冷たい水一杯”というのは、文字通りの意味だけでなく、その人を迎え入れる働きのことです。例えば話しかける、礼拝の道具類を出してあげる、場合によっては聖書や祈祷書、聖歌集にしおりを挟んでおく、座る席を案内する・・・etc. 実はできることはたくさんあります。“それは牧師の仕事だろ”と思っていたりしませんか。
今の教会に“自分が初めて、突然やってきたら”という目で考えてみることは、わたしたちにとって、とてもいい機会となるでしょう。入口はわかりやすいか、入ってすぐ何をしたらいいのかわかるか、など、考えることはたくさんあります。でもわたしは、聖ルカ教会のみなさんのことをあまり心配していません。なぜなら、今も旅人たちにとって大きな働きをなし続けているからです。それは船員奉仕会の働きです。現代において旅人である船員たちをもてなすための大切な働きだと思います。それが本当に教会の働きであるのなら、その心の通りにするだけでいいのです。苫小牧のこの地にあって、立ち寄る多くの旅人たちに対して、“冷たい水一杯”を差し出し続ける、そんな教会として立ち続けていきたいと願っています。

6/22

6/22 人々の前で言い表す  マタイ10:24~33


 本日読まれた福音書の最後は「だれでも人々の前で、自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」と結ばれています。クリスチャンとして当たり前と言ってしまえばそれまでですが、今日は少し、「人々の前で言い表す」ということを考えてみましょう。
 「人々の前で言い表す」と言った時、単純にどんなことを思い浮かべるでしょうか。その一つは「路傍伝道」のようなことでしょう。日本の教会の歴史の中で、かつては「路傍説教」や「戸別訪問」が盛んに行われた時期がありました。しかし、今現在、少なくともこの北海道教区の教会において、路傍伝道が盛んに行われているという話は、寡聞にして聞いたことがありません。信徒のところへの訪問はもっと盛んに行われるべきだと思いますが、無差別にその辺の家を訪問することはあまりないでしょう。さらに言えば、今からこれらのことをやるのは、ものすごくハードルが高いでしょう。イメージもあまりよくないですよね。
 では機会あるごとに「わたしはクリスチャンで教会に通っている」ということを、知人の前で言い立てればいいのでしょうか。それはそれで、ちょっと鬱陶しいですし、余計な争いにもつながりかねません。特に、他の信仰を持っておられる方に対しては、非常に気を使うものです。
 こう考えていくと「人々の前で言い表す」ということが、とても難しいことのように感じられます。教会に来ている青年たちの中には“友達に教会に行っていることを知られたくない”という人もいます。この傾向は、もしかしたら青年たちばかりではないのかもしれませんね。
 では、わたしたちはどうすればいいのでしょうか。一つはまず、教会に行っていることを何かの機会にはっきりと言うことです。例えば日曜日に予定がバッティングすることもあるでしょう。もちろん教会を休むという選択肢もあるのでしょうが、その時に「今日は教会に行くのですみません」ということもできるはずです。また一つは、行いによって知られるということです。別にいつも清廉潔白でなきゃいけないというわけではありませんが、少なくとも日々の祈りを行っているのなら、示される機会はたくさんあるはずです。日々の祈り、特に食前の祈りは家族にとっても友人たちにとっても良い機会となるでしょう。こう考えていくと、「人々の前で言い表す」ということは、わたしたちにとってそんなに難しいことではなくなってきませんか。そして最後に大切なのは、教会の礼拝に参加するということです。礼拝の中でわたしたちは、ニケヤ信経や使徒信経を唱えます。“信仰告白”と呼ばれるこれらの文章は、わたしたちの信仰を短く言い表したものであり、同じ信仰を共にする仲間と唱えることにより、わたしたちを力づけてくれるものであるのです。聖餐式の最後にある言葉は、その礼拝から、わたしたちを世界に向けて派遣しています。その道は必ず、イエスさまがともに歩んでくれる道です。共に歩んでまいりましょう。主イエス・キリストとともに。

6/15

6/15 三位一体の秘儀を知る  マタイ28:16~20


本日は三位一体主日。イースターから始まったイースター関係の主日も今日で最後。来週からは聖霊降臨後の長い期節が始まります。三位一体主日は、三位一体の神さまを記念する日です。父なる神、子なるイエス、そして聖霊の三つの位格が一つであるという、教会の教えです。聖書をしっかり読んでおられる皆さんはご存じのことと思いますが、聖書の中には明確に“三位一体”という言葉って、書かれていないんですよね。それでもなぜ、これがわかるかと言いますと、今日の使徒書や福音書に“父と子と聖霊の名によって”という表現が使われていますよね。そこから、この3つが一つの神であるということがわかるのです。
 教会の古来の伝統では、本日、この三位一体主日に「アタナシオ信経」という信仰告白、ニケヤ信経や使徒信経みたいなものを読むことになっています。日本聖公会では第42回と第45回の総会で決められて以降、祈祷書の末尾に添付することになっています。これをお読みになっておられる方はあまりいないと思いますが、少し目を通してみてください。読んでみるとわかるのですが、のっけからかなり厳しい言葉が並んでいます。例えば“2”には「この信仰を完全に汚すことなく守る者でなければ必ず永遠に滅びる」とあったり、最後の“42”には「これが公会の信仰であり、これを心から忠実に信じなければ救われることはありえない」とあったりします。もちろん、これには歴史的な背景があってのことですから、今のわたしたちに100%当てはめて考えるのは少々危険です。しかし、三位一体の信仰を巡って、文字通りの命のやり取りが行われていた時代があった、そして信仰は“覚悟”によって担われてきたことは、わたしたちの心にとどめておくべきでしょう。
 このアタナシオ信経を読んでみると、最初は三位一体の秘儀について、次にイエス・キリストについてとても詳しく述べられているのがわかります。でも、何が書いてあるかはわかるのですが、何となく腑に落ちないと感じませんか。例えば「父は神、子は神、聖霊も神である」のあとに「しかし、神が三つあるのではなく、神はただ一つである」と続きます。こんな感じで繰り返されるのですから、だんだん混乱してきますよね。神学校で学んだ時も、「これをどうやってわかりやすく伝えたらいいのだろうか」と悩みました。わかりやすくしようとすると、どうしても説明できない部分ができてしまうんですよね。今まで聞いた中で一番わかりやすかった説明は「愛する者、愛される者、そして愛そのもの」が父と子と聖霊というものなのですが、どうでしょう。全能の神さまの中にはこれがすべて含まれていると考えるんですね。
 実際、教会の教えの秘儀の中には、突き詰めて考えていくとよくわからなかったり、どうも腑に落ちなかったりするものがいくつもあります。しかし、わたしたちにとって信仰とは、いつも完全に納得がいく説明ができるものではありません。自分では“これでいい”と思っていても、他人にどうかはわかりません。特に、神さまのことについて、多分わたしたちの言葉では説明しつくせない部分はあるでしょう。しかし、言葉を尽くすだけでなく、その秘儀を“感じる”のも、大切なことです。今日は“三位一体主日”として、この三位一体の秘儀を感じ、またその一端に触れていただければ幸いです。

6/8

6/8 聖霊の風を受けて歩む   ヨハネ20:19~23


本日は聖霊降臨日。教会の誕生日とも言える日です。今日読まれた使徒言行録の出来事から、今日の祭色は赤。炎の色ですね。教会のお祝いの中では、イースター、クリスマスに続く大きなお祝いなのですが、少し地味だったりしませんか。もちろん、教派によっては大きくお祝いするのですが、わたしは子どものころからそんなに大きなお祝いだと認識していませんでした。でも、主日の名前が来週から「聖霊降臨後」と変わるなど、本当に大きな意味があるのです。
 さて、本日読まれた福音書はイエスが復活後に使徒たちのところに現れた様子です。イエスはここで使徒たちに「聖霊を受けなさい」と言い、息を吹きかけています。
 ところでみなさんは、”霊”と聞くと何を想像するでしょうか。幽霊、悪霊、心霊・・・etc. “霊”の付く言葉はいくつかありますが、なんとなく恐いような単語が並んでしまいます。“聖霊”ってなんだろうと真剣に考えてみると、何となくよくわからなくて、形がはっきりしないように感じられて、とても一言では説明できないものです。
 それを考えるヒントはいくつかあります。例えば今日の福音書でイエスは、弟子たちに“息”を吹きかけた後「だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される」と言いました。人が人を赦すということはとても大変なことですし、心情的に考えて無理なことはたくさんあるでしょう。しかし、それにもかかわらず赦すための力を聖霊が与えてくださるということです。また、使徒言行録では聖霊が下った後、あらゆる国の言葉で話しているように聞こえました。少なくとも、多分弟子たちはどの国の人がいるか知らなかったでしょう。ですからあらゆる言葉を弟子たちが話すことができたわけではなく、すべての人が理解できる、すべての人に理解させる力を聖霊は持っているということです。さらに、息を吹きかけるという行為に何か心当たりはないでしょうか。それは天地創造の人が創られた際の出来事です。神が土の塵から形を作り、鼻に息を吹き入れると人は生きるものになりました。わたしたちが生きるためには息が欠かせません。聖霊はまた、命を与えるものでもあるのです。
 聖霊はわたしたちに命を与え、また赦す力を与え、そしてすべての人を繋ぐことができます。そしてそれは、すでにわたしたちみんなに与えられています。なぜならわたしたちはみな“息”をしているからです。イエスの使っていた言葉で“霊”と“息”と“風”は同じ言葉だったそうです。神の息は風を巻き起こし、その風が霊を送り、霊によってわたしたちは息をします。そして、多くの人がつながり、赦しあい、教会ができたのです。神さまが送って下さった聖霊は、いつもわたしたちのそばにいます。その“聖霊”の風を受けながら、今日からの聖霊降臨後を共に進んでまいりましょう。

6/1

6/1 残す者のための願い  ヨハネ17:1~11


先週の木曜日は昇天日。イエスさまが天の国に戻られました。今日読まれた福音書は、イエスが受難の前、地上の残していく人々のためにささげた祈りの部分です。
 一昨年の9月、浜名湖で行われた「宣教協議会」に参加しました。全教区はもちろん、関連団体や付属施設からも多くの人々が集まりました。高齢化や信徒の減少、また信仰の継承の問題など、様々な課題について、宣教について話し合いました。ある意味で、教会を活性化する“特効薬”を求めて集まった部分があると思います。いろいろな教会の実践を聞きあい、様々なことを3日間かけて話しましたが、結局のところ“特効薬はない”という結論に達しました。当たり前と言えば当たり前のことですが、今やっている活動を一つ一つ丁寧に見直しながらやっていくこと、それ以外にできることはないのではないかということです。皆さんも目にしたことがあると思いますが、宣教協議会の“提言”というものが各教会に配布されています。
 どんな組織・団体でもそうですが、後に続く人がいなければ、それがどんなに素晴らしいものだとしても途絶えてしまいます。いわゆる伝統芸能の世界などでも後継者の問題は深刻です。他にも農業だってそうですし、日本全国、多くの場所で“跡を継ぐ人がいない”という状況がみられます。場合によっては、少数の後継者に負担がかかり、結局つぶれてしまうこともあるようです。また、後継者がおらず、消えていくものも多くあります。教会に対して「自分たちの世代がいなくなったら、どうなってしまうだろう」とか「この先どうなるのかな」と考えている人は多いのではないでしょうか。
 先ほど読まれた福音書のイエスの祈りは、徹頭徹尾「自分が残して行く者たち」へのために祈られています。自分が直接守ることはもうできないけれども、神が守って下さるための祈りです。その祈りの中には“後に続く者がいないのではないか”という怖れはどこにも見られません。そして、この祈りで祈られているのは「自分が残して行く者たち」、つまりイエスの祈りはすべての人のための祈りであるということです。限られた、直接イエスを知る人々のためだけではなく、後に続くすべての人々への祈りなのです。そして、神はそれに応え、わたしたちのところに聖霊を送って下さいました。
 この祈りに、わたしたちはどのように応えたらいいのでしょう。一つ大切なのは“恐れることはない”ということです。イエス自身によって祈られた祈りが、わたしたちと共にあるからです。わたしたち自身が右往左往するのではなく、神さまにゆだねること。そしてもう一つ大切なのは、今一度自分たちと教会の歩んできた道を丁寧に振り返ってみることでしょう。宣教協議会の「提言」の一つのテーマは“丁寧な牧会”ということです。これは、手間はかかるかもしれないけれども、教会の一つ一つのことを丁寧に振り返り、また行っていくこと。「前からこうだったから」ということだけにとらわれず、さりとて壊してしまうことでもなく、進んでいくこと。これが、今日読まれたイエスの祈りと共に生きる・歩むことの一つの形だと思います。こうして、わたしたちが一つであるなら、神さまは必ず応えてくれます。主を信じて進みましょう、神のみ心のままに。

5/25

5/25 伸びる枝、支える枝、おろす根     ヨハネ15:1~8


「わたしはまことのぶどうの木」というイエスの自己紹介。ところでみなさんの身近にぶどうの木はあるでしょうか。先日、そこのサンガーデンに出かけたところ、ぶどうの木が植えられていましたが、学校や公共施設などにはたまにぶどうの木が植えられているところがあり、割と身近な果樹の一つかと思います。ぶどう棚にしたり、壁面を這わせたりと、多くの楽しみ方がありますね。北海道教区でも、北見聖ヤコブ教会の横には、立派なぶどうの木が植えられています。これは、15年ほど前に大町司祭が植えたもので、最初は小さな苗木だったのですが、今では多くの実を付ける木に成長し、ぶどうの実を収穫するのは、教会の秋の楽しみでもあります。
 ぶどうの木は、放っておくと毎年どんどん枝を伸ばしていきます。品種にもよるのでしょうが、1本の木から伸びた枝が、教会の片側の壁面の一面を覆ってしまうほど伸びていきます。ほどほどのところで剪定し、形を整えないと、実に養分が行きわたらず、ちょっと酸っぱいぶどうになってしまうようです。なので、ワインに使うぶどうの木は、ほとんど枝を伸ばさせず、幹の周りの少しの枝を残して刈り込んでしまうそうです。ぶどうの旨味を凝縮させるためだそうですが、いろいろなやり方があるものだなぁと感心しました。
 ぶどうの木が伸びていくとき、やはり勢いのあるのは伸びている先端です。青々と茂りながら、その蔓をどんどん伸ばし、成長していきます。そして秋になり、葉が落ちると、先の方の蔓は落ちてしまいますが、枝として残る部分があり、だんだんと太くなって、次の年はそこから芽が出てまた成長していきます。根元に近い枝は幹となり、そこから葉が出たり、花が咲いて実がなったりすることはありませんが、太くなったその体で木全体を支えています。そして、一部ですが、地面に近くなった枝を土に埋めてやると、そこから根が出て、新たに栄養をその体に供給するのです。
 「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉を聞いて、ぶどうの枝の、様々な役割と成長の仕方を思い出します。勢いよく伸びていく若い枝があります。その伸び方は自由奔放です。そして伸びる力は失っても、その太さで木を支える枝があります。一見枯れたように見えますが、伸びていく枝を守りながら、年々その太さを増しつつ、木全体を支えていきます。そして途中で根を下ろし、木全体に力を与える枝があります。すぐに根が出るわけではありませんが、最初の根っこから遠くなってしまった場所にも栄養を送り、木を元気にする欠かせない役割です。そして多くの葉が茂り、花が咲き、秋には多くのぶどうの実を、わたしたちのところに届けてくれるのです。
 「わたしはまことのぶどうの木」というイエスさまに繋がっている限り、わたしたちはいつもその役割を知らず知らずのうちに果たしています。一見枯れたように見える枝にも役割があり、すべてを支えているのです。イエスさまという「ぶどうの木」に連なる枝である自分を、今一度意識しつつ、日々の信仰の中を歩んでまいりましょう。

5/18

5/18 道をたどって        ヨハネ14:1~14


「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」とイエスが語る今週の福音書は、イエスの“告別説教”と呼ばれる部分の一部です。イエスが様々なことを語るわけですが、その意味は何となくわかるようでわからない個所です。
 “道”はわたしたちがほぼ毎日必ず利用するものでしょう。道を歩いて、あるいは走って、もしかしたら自転車で、車で、バイクで・・・・と様々なところへ行くために利用します。多分皆さんの家の前には必ず“道”があり、また庭のある方でしたら、玄関までの“道”も備えられていることでしょう。また散歩をすれば公園や森林など、様々なところに“道”があり、誰かが歩いたところを歩くことができます。
 道のないところを歩くのは結構大変です。例えば山菜取りなどで森へ分け入る時、ほとんど道なき道を進むことがあります。というより誰かの後を通っていては収穫は望めません。だから藪を漕いで行くのですが、これが結構大変です。誰かと一緒に行って、その後をついていく方が圧倒的に楽です。昔の採集生活をしていた人たちは大変だっただろうなぁと思います。そうやって山に入り、山菜を取っていくわけですが、誰かが分け入った跡が、後に別の誰かが歩いて道になる。今わたしたちが普通に通っている街道も、かつて誰かが歩いて道を付けて、そのうち通る人が多くなって道になったものです。「誰かのあるいた跡が道になる」のはとても自然なことです。しかし、最初にその道を付けた人はすごいなぁと思います。
 わたしたちはみな、神を待ち望む者であり、どうにかして“神様のところへ至ろう”とどこかで思っている者です。それがキリスト者であるということです。しかし、神さまのところへ至る道というのは、一人で見いだせるものではありませんし、険しい道です。『天路歴程』という小説がありますが、神さまのところへ至る道を主人公クリスチャンが困難の中歩き続ける物語です。
 しかしイエスは言います。「わたしを通らなければ、誰も父のもとへ行くことはできない」 これは、イエスの後を“必ず通らなくてはならない”という命令などではなくて、“わたしの後をついてらっしゃい”という呼びかけではありませんか。つまり、神さまのところへ至る道は長く険しいけれどもだいじょうぶ。わたしが道を付けていくから、藪を漕ぎ、雪を漕いで行くから、安心して後をついて来なさい。そういう意味だと思うのです。
 神さまは世界をお創りになりました。世界中には神さまの足跡がしるされていない場所はどこにもありません。神さまはすべての場所をお歩きになり、わたしたちにその後を通ってくるようにわたしたちに呼びかけます。そして、イエスさまが、「わたしの後についていらっしゃい」とわたしたちに向かって呼びかけています。イエスさまの後に続くなら、先頭に立って藪を漕ぐ必要はありません。イエスさまはその背中を、わたしたちにむかって示されています。その背中を見つめながら、今日を歩いていきましょう。

5/11

5/11 ひつじの聞く声        ヨハネ10:1~10


今日の聖書は“羊”についてのイエスの話。少々抽象的でわかりづらい部分もある話かと思います。“羊”と言いますと、街中に住んでいると、昔ならいざ知らず、今はあまり身近にはいない生き物ではないでしょうか。少なくともわたしが日常生活の中で羊に出会うことは現在ほとんどありません。
 以前、岩見沢におりました時、あるところで羊と山羊を2頭ずつ飼っていました。で、夏休みの1週間ほど、その世話をすることになったのですね。いつも世話をしている人が休みを取るためなんですが。世話というのは、小屋のある小さな囲いから羊と山羊を出して、草のあるところに誘導し、つないでおくことでした。羊も山羊も誘導すれば割と素直に出てきてくれますし、そんなに難しくもないか、と思っていたのですが、やっぱり囲いに戻す時は力もありますし、反対側に行きそうになると大変だったのをおぼえています。最後の日、いつも世話をしている人が夕方に立ち寄って下さいました。で、ちょうど囲いに羊たちを戻すところだったのですが、その人がやると全然違うのですね。“いくよ~!”と声をかけると割と素直に従いますし、わたしはいつも綱を引っ張られている感じだったのですが、そんなこともなく囲いに戻っていくのですね。「羊はその声を知っているのでついていく」という先ほどの聖書の言葉をありありと思いださせられる体験でした。
 当たり前のことですが、羊にとって、最初は誰でも同じことです。しかし、世話をする人=羊飼いが繰り返し繰り返し言葉をかけ、いつも共にいることを通して、羊たちがその言うことを聞くことになったわけです。いつまで経っても、誰でも同じ声なのではなく、徐々にその羊飼いの声を知っていくわけです。では、今日のこの話は、わたしたちにとって何を呼びかけているのでしょう。わたしたちは神さまの野に放たれた羊であり、その羊飼いはイエスさまです。繰り返されるその声は、聖書の言葉であり、礼拝であり、そして日々の祈りの中に聞こえてくる声です。イエスさまは常に世界に呼びかけています。その声は遠く小さな声ですが、それでも世界中に響き続ける声です。その声を聞いたわたしたちは、一人また一人とその声に応え、ここに来ているのです。
その声が響いていることに気が付くためには、耳を澄ますことが必要です。でも、心の耳に聞こえる声は、普段の生活の忙しさの中で、その音にかき消されてしまうことがままあります。だからこそ、わたしたちは日々祈りを唱えることを大切にしています。そこで、どうぞ1日5分の、いや2~3分の小さな沈黙の時間を、何もしない時間を取ってみてください。いかに、自分が日々の忙しさの中に、その音の中にいたかを気づくことができるでしょう。イエスさまの声を聞き分けるためには、日々の祈りとともに、日々の沈黙こそが最も必要だとわたしは思っています。どうぞ、日々の祈りと沈黙の中で、イエスさまの声を聞き分けつつ、歩み続けたいと思います。

5/4

5/4 燃えた跡に       ルカ24:13~35


本日の福音書はエマオへの道のお話。これもみなさんよく御存じの物語です。最初はイエスだとわからなかった二人の弟子がイエスに気づき、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と後に語り合います。
 何か新しいことが始まったり、新しいものにチャレンジしたりしている時って、何となくわくわくするものだと思います。もちろん人それぞれ違うわけですが、例えば楽しみにしていた連載の続きを読み始めるとき、話題になっているお店に入る時、新しい服にそでを通す時…etc. 何事も最初の頃って、何か“心が燃える”感じになることがあることと思います。
 でも、しばらく時間が経ったり慣れたりしてくると、だんだんとその“燃える心”は静かになっていくものです。何となく最初のモチベーションが維持できないというのはよくあることでしょう。常に新しいことに目を向けられればいいのかもしれませんが、そう都合よくいきません。何回読んでもおもしろい本だとしても、最初の時のわくわく感は戻ってきません。
 信仰もまた、同じようであると思います。例えば洗礼を受けた時、受けようと決意したとき、わたしたちの心は燃えています。それでもしばらくすると、だんだん落ち着いてくる、そんなことがあると思います。わたしは幼児洗礼で、何か淡々と教会に通っていたわけなんですが、それでも一時期教会に燃え、様々な活動を行っていた時期がありました。でもまぁ、何となく今は落ち着いたというか少々枯れたというか、淡々と信仰生活を送っている状態です。“あの時わたしたちの心は燃えていたではないか”と、振り返る思い出というのは、教会のことだけに限らずみなさんそれぞれにあるのではないでしょうか。
でも残念ながら、燃える心って長続きしないものです。たまにずっと燃えっぱなしでいられる人もいるのですが、どちらかというと珍しいことだと思います。一時期燃え上がって、あとで何となく火が消えてしまうというのは普通のことです。エマオへの途上で“燃える心”を持った2人の弟子たちはその後どうしたのでしょうか。“燃える心”をずっと持ち続けられたのでしょうか。おそらくですが、わたしはそれは難しかっただろうと思います。誰もが偉大な信仰の先輩たちのようにできればいいのですが、なかなかできるものではありません。それは心が弱かったり、信仰が小さかったりするからではなく、当たり前のことです。では、凡人であるわたしたちにできることはなんでしょう。火を燃やした跡には灰が残ります。そして、一部おき(種火)が残っていることもあります。心の中の燃え跡には灰と小さな種火が残っています。種火は灰に守られて残ります。また燃えるものがあって、風が吹き込まれれば、再び燃え上がります。心の中の種火を大切にしてください。それは“心が燃えていた”という思い出であり、また日々の淡々とした信仰生活です。そして、それを守る“灰”は、わたしたちの小さな日々の祈りです。小さな祈りに守られながら、これからの日々を過ごしてまいりましょう。

4/27

4/27 閉ざされた扉の中に       ヨハネ20:19~31


イエスさまの復活から1週間が経ちました。ここではやっていませんが、復活後の1週間は本来ですと毎日聖餐式を行うお祝いの期間です。そして、今日がその最後に当たります。
 先ほど読まれた福音書は、イエスさまの復活の様子、そしてその1週間後の出来事です。ユダヤ人たちを恐れて閉じこもる弟子たちの真ん中に、2度もイエスさまが現れるのです。しかも、閉ざされた扉を通り抜けて真ん中に立つのです。
 昔は家の戸に鍵をかけるということは少なく、例えば近所の方が普通に入ってくるというようなことがあったかと思います。“教会の扉はいつでも開いています”というのが、ある意味で教会の売りでした。しかし、近年、やはり“鍵をかける”ことが推奨されています。昔は学校の門なども開いていて、休みの日に校庭でサッカーを勝手にしたり、遊んだりすることもできました。しかし、いろいろ事件があったためか、校門にガードマンが立っていたり、ロックされていて勝手に入ることができなかったりします。また幼稚園なども外部の人が入れないように戸締りをきちんとするようになり、教会でも礼拝堂に自由に入って祈ることができるところも少なくなりました。戸締りをして入れない空間が、わたしたちの周りにどんどん生まれていて、わたしたちもそれに慣れてきていると言えるのではないでしょうか。
 もちろん、防犯的な意味を考えても戸締りをすることは必要です。金庫の扉を開けっ放しにしている人はいませんから。開いていれば出来心が生まれないとも限りませんから、戸締りはそれを未然に防ぐ意味あいもあります。四六時中開けっ放しなわけにもいきません。
 でも、戸締りが当たり前になることによって、どうでしょう、人の心にもお互いに何となく垣根ができてしまう、心にも戸締りが行われていると感じることはありませんか。何となく、ほかの人との距離感がつかめない人が増えているのではないかという気がしています。これは老若男女問わずにです。じゃあ全部フリーパスがいいかと言えばそうではありませんが、それでも何となく引っかかるものを感じることがあるのです。
 今週の福音書のイエスさまは、閉ざされた扉の中に入ってきて真ん中に立ちます。これはイエスさまが幽霊だとか、そういうことではありません。イエスさまにとって、わたしたちが閉ざす、どんな扉も意味がないということです。イエスさまは、様々な扉を通り抜けて、いつもわたしたちの真ん中に立ち、そして呼びかけます。「あなたがたに平和があるように」 どんなに離れていても、教会に関わらなくても、礼拝から遠ざかっていても、どこにいても、イエスさまはやってきます。そして、イエスさまはトマスのように疑うわたしたちの心をも受け入れ、その傷跡を示してくださいます。疑い、また否定することもあると思います。しかし、それでもイエスさまはそれを受け入れ、心の扉を通り抜けてわたしたちの真ん中に立ち続けるのです。
 イエスさまはいつもやってきています。祈りをささげた後、心の中をのぞいてみましょう。きっと、わたしたち一人一人の心の中に、イエスさまを見つけることができるはずです。イエスさまとともに、これからも歩んでいきたいと思うのです。

4/20

4/20 繰り返される新しい誕生    ヨハネ20:1~20


本日はイースター。主の復活の日です。おめでとうございます。
 イースター、復活祭は、教会の一番大事なお祭りです。正確な回数は、イエスさまの年齢がはっきりしないのでわかりませんが、これまでに2000回に少し足りないくらいの回数の“主の復活”が世界中で祝われてきました。毎年毎年、新しくイエスは復活をします。わたしたちがイエスさまの十字架の意味を忘れないため、また復活によって救われていることを忘れないため、イエスさまは毎年新しく復活します。
 北海道に来て、イースターの原風景というのは、この北国の気候にぴったりだなぁと感じます。内地ですと、今年なんかはもう桜も散ってしまっています。でも、こちらではちょうど雪も溶け、河川敷などではところどころで緑が見え始めている。長い冬が過ぎ、春が始まる。今年の新しい命が始まる春が始まりつつある。そんな時です。ちょうど新しい年度に切り替わったばかりの、何かこう初々しい感じのする時期で、イースターの意味と、季節と、行事とがぴったりしていて、ちょっとあわただしかったりもするのですが、とてもいいと思っています。
 今年は、教会にとっても、幼稚園にとっても大きな転換点となりました。一つは牧師が変わったこと。そして牧師園長ではなく、専任の園長を迎えたことです。それにともなって幼稚園にはチャプレンが就任しました。信徒にとっても、幼稚園の先生たちや園児たち、また保護者の方々にとっても、大きな戸惑いがあることと思います。今、教会は、そして幼稚園は、“新しい誕生”を迎えています。幼稚園に入園したばかりの子どもたちが泣いたり、戸惑って動きが止まったりするのと同じように。わたしたちは大人ですから環境が変わると、さすがに泣いたりはしませんが、それでも若干の戸惑いを抱えながら動きます。会社でも、新入社員を迎えると、今までの動きが若干変わって、少し戸惑いつつも仕事をしていると思います。
 イースターは、イエスさまが“新しい誕生”を迎えた時です。クリスマスは文字通りの“誕生”ですが、今日は“新しい誕生”です。“新しい誕生”と言っても、完全に何か人が違ったかのように生まれ変わることではありません。身体や心が、昨日までの自分と切り離されて新しく生まれ変わるわけではなく、昨日までと、そして明日からとつながったままです。しかし、徐々に生まれ変わり続けているのがわたしたちの身体です。
 繰り返し繰り返し、2000回にちょっと足りないくらいの回数、教会は“新しい誕生”を祝い続け、毎年新しく生まれ変わり続けてきました。普段は全く意識しないと思いますが、今年は少し、この“新しい誕生”を意識していきましょう。普段は何気ない、いつも通りの新年度ですが、イースターの意味を重ねると、意味が変わってきます。もちろん“新しい誕生”だからと言って、一気に何かが変わるわけではありませんが、それでも毎日内側から少しずつ生まれ変わっている私たちの身体のように、少しずつ変化が見え始めています。“新しい誕生”は少しずつ進み、確実にわたしたちを変えていきます。その“新しい誕生”の時を、みなさんと共に歩んでまいりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

4/13

4/13 主の受難       マタイ27:1~54



長い長い福音書朗読が行われると、いよいよ主の受難の週が始まります。先ほどは棕櫚の十字架を祝福し、皆さんにお渡ししましたが、今日はイエスさまの受難全体をおぼえる主日であると同時に、受難の一番初めであるエルサレム入城を記念する主日でもあります。今週は、いわばキリスト教の神髄ともいえる1週間です。
 イエスは受難に向かって進んでいくわけですが、わかっているのにイエスは進んでいきます。わたしたちもどうなるか知っているけれども、イエスは受難に向かって、十字架上の死に向かって進んでいきます。
 主の受難のことを考えるのは重く、また苦しいものです。毎年この時期に映画“パッション”を見ることにしているのですが、何度見てもしんどいものです。イエスさまは復活され、新しい命に生きているのだから、今のわたしたちがわざわざ苦しむことはないではないか、復活の喜びだけ感じていればいいではないかという思いが頭をよぎることもあります。
苦しいことはなるべく遠ざけておきたいというのは当然の心理だと思います。それではなぜ、わたしたちはこの受難の週を毎年毎年祝い続けてきたのでしょうか。
 それはやはり、イエスさまが何のために十字架にかかったのかということを大切にしたからでしょう。わたしたちの罪のため、人のために、イエスさまは十字架に向かって歩んだのです。イエスさまの思いを無駄にしないためにも、わたしたちは十字架の死を通して復活を祝い続けるのです。さらに言えば、人はどうしても忘れてしまうことがあるからかもしれませんし、苦しいことはしんどいことであるからかもしれません。
 教会は古来より、この聖週を大切に守ってきました。祈り、一つ一つの出来事に心を留め、あるいは断食をし、黙想をして過ごしてきました。その向こうにある復活を、イースターの喜びを見つめながら、わたしたちは今一度、その苦しみにも目を止めなくてはなりません。なぜならば、復活の出来事の喜びは、やはり受難とセットになっていなければ意味が半分以下になってしまうからです。受難があって事の復活であり、苦しみがあってこその喜びなのです。どうぞ皆さんにお勧めします。できる限りで構いません。受難の日、聖金曜日を大切にしてください。イエスさまが十字架にかかられたのはちょうど正午ごろのことです。また息を引き取られたのは午後3時ごろのことです。その時間にそっと祈りに心を合わせていただけるよう、お願いいたします。
 今週が過ぎればいよいよイースター、復活の日です。受難のこの週に心を向け、復活の喜びの時を迎えましょう。

4/6

4月6日 もしも○○だったら      ヨハネ11:17~44

 大斎節も5週目に入り、受難と復活が近づいてきています。外も少しの寒さはありますが、だんだんと冬から春の様子になってきています。
 今週読まれた福音書はイエスがベタニヤでラザロを生き返らせる場面です。有名なお話ですね。ラザロの死に嘆き悲しむマルタとマリアの姉妹。そして慰める町の人たちの様子が描かれます。
 「もしも○○だったら」と想像することは、誰にでもあるものだと思います。仕事のこと生活のこと人生のこと。様々な場面で、わたしたちは「もしも○○だったら」と考えます。しかしこれがなかなか都合のいいようにはいきません。マリアもまた、イエスに言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」 もしもイエスがすぐそばにいたら・・・、という少し非難めいた言葉にイエスは憤りを見せるのです。いつもここで疑問に思うのは、イエスの行動です。わたしたちの知っている優しいイエスさまならば、マリアを慰め、また祈るという気がします。ではイエスは慰めるのではなく、なぜここで“憤る”のでしょうか。
 それは、マリアの“期待”についてです。マリアの「もしもイエスがいたら、兄ラザロは死ななかったに違いない」という期待は空しく打ち砕かれましたが、それをさらに上回る「もしもイエスが来て下さったら、兄ラザロは生き返るだろう」という期待があることに気がついていません。マリアの感情にはもしかしたら、すぐに来てくれなかったイエスに対しての若干の恨み言も交じっていたかもしれません。しかし、「信じるならば神の栄光が見られる」とイエスは言い、「死なない」よりもはるかに大きな「よみがえらせる」ということを行ったのです。
 わたしたちも様々なことに多くの“期待”をかけます。それが期待通りになったこともならなかったこともあったでしょう。そしてなったことに喜び、ならなかったことに嘆いたり憤ったりしたことでしょう。今日の聖書から読み取れることは、その“期待”についてのわたしたちの誤解です。何かに“期待”をかけることはとてもわくわくすることです。でも、その“期待”が空しくなった時こそ、わたしたちの信仰が試される時ではないでしょうか。なぜならば、マリアが想像だにしなかったように、わたしたち人間の思考の限界をはるかに越えて、神さまはさらに大きい“期待”として、すべてをよいように計らってくださるからです。人が亡くなって4日後に生き返るということを誰が“期待”したでしょうか。生き返ることですら信じ難いのに、4日もたっているのですから、文字通り「もう臭います」。普通に考えてもタイミングとしては“遅い”です。それでもなお、主はラザロを生き返らせました。神さまの“期待”は少し遅れてやってきます。わたしたちも自らの持つ人間的な“期待”だけでなく、その背後にある見えない“神さまの期待”を待ち望みつつ、大斎節の残りの時を過ごしてまいりましょう。