日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

2/22

2/22 “霊”に送り出されて  マルコ1:9~13

 大斎節に入り、イエスは荒れ野で40日40夜を過ごします。先ほど読んだ福音書では、その前の洗礼の場面から引き続き荒れ野に行った様子が描かれています。
 “霊”特に“神さまの霊”、“聖霊”は、わたしたちに様々なものを与えてくれるものです。イエスが再び来られるまで守ってくれる存在であり、わたしたちの心の声を神さまにとりなしてくれるものであり、わたしたちを支えてくれるものでもあります。でも、その“霊”は、時に今日の福音書のイエスのように、わたしたちを“荒れ野”のようなところに導くこともあるのです。
 人生において“荒れ野”の時期を過ごしたことが無い人はおられないでしょう。“今こそがそうだ”と感じる方もおられるかもしれません。わたし自身短い人生を振り返っても、その時は“荒れ野”としか思えないような時を過ごしたことがあります。100%順風満帆な方って、わたしは出会ったことがありません。傍目にはそう見えていても、そうでないことがよくあります。牧師として、たまにそのような人生のあれこれを伺うことがありますが、どれも聞いているだけでしんどいお話です。ですが、それらのお話を聞いて思うことは、失礼かもしれませんが、その“荒れ野”の出来事があったからこその今であり、自分であるということです。これは自分に置き換えてみてもそう思える部分は多々あります。
 “荒れ野”でのイエスの生活は、マルコによる福音書だとさらっと書いていますが、どう考えてみてもつらい事であったことは間違いないでしょう。食べるものがない、水もない、野獣がいる・・・etc. 例年灰の水曜日と受苦日は断食することにしていますが、一日ですらつらいのにそれが続くとなると、想像するだけでいやになります。自分であれば裸足で逃げ出すような状況です。それでもなお、イエスはそこにとどまり続けたのです。なぜならば、それは“霊”に送り出されたからであり、天使たちが共にいて、守られていることを知っていたからです。神さまからわたしたちのところに送られた“霊”は、基本的にわたしたちを守る者ですが、わたしたちの“養育係“でもあります。子どもが時に叱られながら、つらい時期を過ごしながら成長するように、わたしたちの内側もまた、同じように成長します。外側が年を取っているか、経験があるか、そういったことは関係がありません。わたしたちの内なる人の成長は、子どもであっても大人であっても老人であっても“霊”に導かれて起こるものです。そのために、時に“霊”はわたしたちを“荒れ野”へと送り出すのです。
 “霊”がわたしたちを送り出す時、抗うこともわたしたちにはできます。でも多くの場合において、自分にとって不本意かどうかよりも、素直に順応しようと思った方が、その“荒れ野”の経験が、わたしたちを後にますます生かすことになるでしょう。そうすることができるように、わたしたちを送り出した“霊”は、そばにいて支えている。見えなくても支えているものだからです。“荒れ野”の時こそ、わたしたちが大いに神さまに頼り、支えられる時なのです。時にその“霊”が送り出すまま、素直に進んでみるといいかもしれません。

2/15

2/15 言葉の持つ力  マルコ9:2~9

 今週からいよいよ大斎節に入ります。その前の主日に読む福音書はいつも、この山上でイエスの姿が変わる場面です。8月6日の「主イエス変容の日」の祝日もあるのですが、大体平日ですのでみなさんがこの箇所に触れられるのは大斎節前のこの日でしょうか。イエスと共に山に登った弟子たちの目の前で姿の変わったイエスに「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉が天から響きます。この言葉はイエスの洗礼の場面でも響いた言葉でもありますよね。
 聖書において神さまの力を表すのは、多くの場合“言葉”であることに注目したいと思います。創世記の冒頭の天地創造の時、モーセにシナイ山で語りかけた声、今日旧約聖書で読まれたようにエリヤに神が臨んだ時、そしてイエスにかけられた声、他にも様々な場面で語りかける声として、言葉として神さまは現れています。わたしたちが祈る時、口に出しても、心の中でも、言葉で神に語り掛けています。わたしたちが神さまに心を向ける時、口に出しているかどうかはともかくとして、言葉からは離れられません。
 その声はイエスと共にいた弟子たちに対して“これはわたしの愛する子。これに聞け“と語りかけました。だからこそわたしたちも聖書を通して、イエスの声を、神の声を聞くのです。そしてまた、わたしたちはお互いに声を聞きあいます。“男は黙って行動で示す”なんて言われることがあります。でも、なんだかんだ言って“言葉ではっきり言い表した方がいい”ことって多いですよね。逆に“言わなきゃよかった”なんてこともありますね。ですが、わたしたちは良かれ悪しかれ、言葉によって影響を受けていると言えるでしょう。そして、わたしたちの口から出る言葉もまた、神さまほどでありませんが、大きな影響を持っているということです。
 “脳は主語を判別できない”という研究結果があるそうです。人に向けた言葉も、自分に向けられた言葉も、脳は区別できていないのだそうです。人に対するうわさや悪い言葉が、自分に向けて跳ね返ってくるとも言えるでしょう。わたしたちが口に出す言葉によって自分自身も影響を受けるということなのだそうです。
 大斎節に入る前の主日に、必ずこの箇所が読まれることの意味を、この時期になるといつも考えます。もちろん一つは、わたしたちが神の愛する子であるイエスにならうことでしょう。これからイエスは荒れ野での40日間に入っていくわけですから。もう一つは、わたしたちが“信仰”に対してどれだけ言葉にしているだろうかということを見つめなす時期として大斎節を意識しようということなのではないかと思うのです。イエスが“神の愛する子”であり、それをわたしたちが“信じている”と口に出すこと、言葉にしていくこと。そのような大斎節として過ごしていければ幸いです。

2/8

2/8 人里離れた所で  マルコ1:29~39

 今日読まれた聖書は、イエスの日常を紹介したようなところです。当たり前のことですが、宮清めですとか、エルサレムに行くだとか、山上の説教だとか、そういった大きな事件ばかりが日々あったのではなくて、イエスにも普通の日があったはずですよね。朝起きて、自分の勤めを果たし、食事をして・・・etc.といった何気ない日常があったはずです。その中でわたしが注目したいのは「朝早くまだ暗いうちに、イエスは掟、人里離れた所へ出ていき、そこで祈っておられた」という一文です。
 福音書を読み返してみますと、節目節目ごとに、イエスが”人里離れた所へ行って祈る”という言葉が出てきます。大斎節に近いところで言いますとゲッセマネの園での祈りや、荒れ野で過ごしたこともそうですよね。むしろ、イエスの日常は“人里離れた所に行って祈る”という行動に支えられていたのかもしれないと思うのです。
 “人里離れた所に行って祈る”と簡単に言いましたが、北海道だとできるかもしれませんが、人のいないところって、あまりないですよね。朝、教会の礼拝堂で祈っていても、人の気配は結構あるもので、朝登校していく子どもたちの声、除雪機の音、車の音、船の霧笛など、様々な音が聞こえてきます。そもそも教会自体が人里離れた所にあっては不便ですから、町の真ん中にありますよね。昔と違って、町から外に出るというのは簡単ではありません。それでも、やはり“人里離れた所で祈る”というのは、信仰にとって大切だと思うのです。なぜならば“イエスだからそうやって祈れる”ということではなくて、“イエスさまですら離れて祈らなくてはならなかった”のならば、わたしたちにこそ、そういった祈りが必要であると考えられるからです。
 幼稚園で子どもたちに“お祈りってなぁに”というお話をします。それは“神さまと静かにお話しすることだよ”と伝えています。これは大人であっても同じことだと思います。神と静かなところで、このところあった様々なことや自分の思っていることを神に伝え、その言葉を聞こうとすることです。そうするためには“人里離れた所”へ行くのです。
 でも、今時期に“人里離れた所”に出かけて行くのは大変です。寒さ対策もしなくてはなりませんし、遭難してしまうかもしれません。しかし、わたしたちは自分の家でも“人里離れた所”を作り出すことはできます。テレビを消して、パソコンを消して、本を遠ざけます。目を閉じ、呼吸を整え、呼吸に集中します。もし難しいなら、平日に教会に足を運ぶのもいいかもしれません。礼拝堂はそのためにあるとも言えます。日曜日だけではなく、普段の生活の中に“祈り”を組み込むための場所でもあるのです。イエスでさえ、祈ることが必要だったのなら、わたしたちにこそ、祈りは必要です。つい忘れてしまうかもしれません。それでも祈り続けながら、日常を過ごしていきたいと思うのです。

2/1

2/1 わたしが語る  マルコ1:21~28

 イエスの活動の中でかなりの部分を占めるのは、病気の人などを癒す活動です。特に当時は“病気は悪霊が起こすもの”と考えられており、今の医療とはだいぶ違う方法が用いられていました。今日読んだ福音書でも、イエスはカファルナウムの会堂で悪霊を追い出します。それを見た人々は「権威ある新しい教えだ」と驚き騒ぐのです。わたしたちにしてみれば“イエスさまだから権威があって当たり前”とついつい思ってしまいますが、なぜ会衆たちはイエスの言葉に対して「権威ある新しい教えだ」と言ったのでしょうか。
 それを考えるのにはまず、当時の権力者たちの話の伝え方を知らなくてはなりません。古代において権力者(王様や皇帝でしょうか)は下々のものに直接語りかけることはしません。誰か使者を遣わして「王は○○と言っておられる」といって伝えるのです。ユダヤの教えもそうですけれども、「聖書にはこのように書いてある」とか「ラビ(ユダヤ教の教師)はこう言っておられる」と言って伝えるのが普通のやり方でした。自分が自分の言葉として語るのではなく、何かの権威によって語るというのが普通だったのです。会堂で教える時のやり方と言ってもいいでしょう。でも実は今でもそう変わりないかもしれません。例えば教会でも「主教がこう言ってたよ」とか「牧師がこういってたよ」なんて伝え方をすることはありますよね。また、会社ですと「上司の命で」なんて言い方もあるのではないでしょうか。少し形は違いますが、今でも“何かの権威によって語る”ということはあるでしょう。しかしそれに対してイエスの発言は、特に自分から語りかける時、自分の言葉でしゃべっているのに気が付きます。「神はこう言っておられる。黙れこの人から出ていけ」ではなく、「黙れ、この人から出ていけ」と、自分の言葉としてそれを語っているのです。そしてまた、弟子たちにも同じようにするようにお命じになりました。
 わたしたちは知らず知らずのうちに、自分の言葉ではなく、誰かの言葉を借りて話していることってないでしょうか。“誰かが言っていたから”“テレビで言っていたから”“本で読んだから”など、考えてみれば自分の言葉ではなく、誰かから聞いた言葉で語っていることが多くなっているような気がしているのです。もちろんそれが100%悪いわけではありません。それを自分で消化し、自分の言葉になっているのならいいのです。しかし、わたしも含めてそうなっていない場合も多いのではないでしょうか。「わたしがどう思うのか」「何を伝えたいのか」を、言葉が足らなくても、上手く伝わらなくても、“自分の言葉で”語ろうとする時、イエスがその後ろにそっと立って、励ましてくださっている気がしてならないのです。「わたしが語ります。神さま、あなたのことをわたしが語ります。」と語り出す時、そこに必ず聖霊の力が働いているのです。

1/25

1/25 人間をとる漁師  マルコ1:14~20

 「人間をとる漁師にしよう」 イエスが4人の漁師たちにかけた言葉です。“人間をとる漁師” なかなか考えさせられる言葉です。
 一口に“漁師”と言ってもいろいろあります。東日本大震災支援で釜石に行っている時に出会った釜石周辺の小漁村の漁師さんたちは、“魚を取る”というより“貝とかウニとかを採集”しています。また、同じ“魚をとる”でも、マグロやカツオなどの“一本釣り”なのか、秋刀魚みたいに“網で”とるのか、やり方にも大きな違いがあります。イカ釣りみたいにひっかけるのもありますよね。“漁師”という言葉でも、イメージがぜんぜん違います。例えば、一本釣りの漁師をイメージすると、何か針で口のところを引っ掛けられて吊り上げられるみたいで痛そうですよね。もちろん、ペトロたちの漁は、網で魚をとるものだったようですけど。
 漁をして、網にかかった魚は、船に引き上げられ、港に着くとセリにかけられ、出荷されていきます。魚にとって“網にかかる”ことは“死ぬ”ことと同じです。どんなに暴れても、網に穴が開いていない限り出ることはできません。漁師たちだってそんなことはわかっていますから、網は毎日しっかり繕います。当たり前のことです。ペトロたちがイエスに出会ったのも、毎日の仕事の一環として、網を繕っている時の出来事でした。
 そう考えていくと“人間をとる漁師”という言葉が、とても恐ろしい言葉に思えてきます。カルトじみた言葉にも思えてきます。
 しかし、今、教会にいるわたしたちは“死んだ”わけでも“カルトじみた”わけでもありません。ある意味で、集められてからも集められる依然とそう大差ない日常を送っています。もちろん少々の変化はあると思いますが。
 キリストを受け入れる時、わたしたちは洗礼を受けます。洗礼にはいくつか意味がありますが、もともと、この言葉は「溺死させる」という意味を含んでいます。かつては、川で身体ごと水の中に浸して引き上げる、文字通りの“洗礼”をしていました。(今でもやっているところはあります) 今でこそそういう行為は、あまりしなくなりましたけれども、一度水の中に沈められ、引き上げられる。“一度死に、よみがえる”という意味が、洗礼には隠されています。網によってとられたわたしたちは、一度死に、新たによみがえった命を、今、生きているのです。
 そう考えると“人間をとる漁師”は“人を生かす漁師”でもあるわけです。網にかけられて一度は死んだ命のはずが、キリストによって新たに生かされているのです。イエスは自分が漁師であるだけでなく、弟子たちをも“人間をとる漁師”として呼び出されました。ペテロたちは特別な人間ではなく、後からの出来事を見てもわかるように欠けたところの多い人間でした。できないことも多かったでしょう。しかし、新たな命を生きる中で、様々なことをやりながら歩んでいったのです。そして、ペテロから続くすべての人たちがまた“人間をとり、生かす漁師”として働くようになったのです。そして、わたしたち一人一人は、その系譜に連なっています。それは牧師だけではありません。
わたしたち一人ひとりが、“人を生かす漁師”であるように、今後も進んでまいりましょう。

1/18

1/18 来て、見て、信じて   ヨハネ1:43~50

今日の福音書は、イエスの活動の最初期のころ、弟子たちを集めている時のお話です。ペトロたち漁師など、様々な人たちを弟子にしてきたイエスですが、今日はフィリポとナタナエルに出会います。ちなみにナタナエルはここでしか出てこない人でして、いつもフィリポと二人でいたことは何となく読み取れるのですが、それ以上のことはわかりません。
 今日出てきたフィリポやナタナエルに限らず、イエスの弟子たちはみな、イエスから「わたしに従いなさい」という言葉をかけてもらっています。そして、誰かに紹介される時も「来て、見なさい」と言われて、会いに行ったらそのままついていってしまう。今を生きるわたしたちではイエスに直接出会うことはできませんから、こうやって“来て見る”ことができるなんて、とってもうらやましいし、説明もしなくていいなんてとっても楽だなぁと思います。フィリポに声をかけられたナタナエルも、直接イエスと会ってみて、すぐに「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」なんて言ってしまう。どうですかみなさん、例えば今ですよ、自分の友人が来て「ちょっと来なよ、すごい人に会わせてあげるから」とか言ってくるわけです。それについていって、正直胡散臭いと思いますが、そこであった人にいきなりついていくなんて、そんなことあると思いますか。ちょっとどころじゃなく怪しさ満点ですよね。いくら昔だって、そうほいほいついていかないんじゃないかと思うのですが、そういった壁を乗り越えるイエスの持っている力というのは、とても大きなものだなぁと思います。
 現代を生きるわたしたちは“直接イエスに出会うことはできない”と思いますよね。まぁ少なくとも肉体的には無理です。しかし、今でもわたしたちが心を開き、しっかりと向き合うと、そこにイエスがやってくることはあるのです。それは、わたしたちが静かに聖書と向き合い、思い巡らす時です。いつもではありませんが、イエスの言葉が福音書の中から立ち上がってくるような、目の前で話してくれているかのような気持ちになることがあります。正直なところ、毎日時間を少し取っていても、そんなに回数が多いわけではありません。でも、確かにイエスと出会うことがあるのです。
今、わたしたちはいつも“しなければならない”色々なことや“したい”色々なことに取り囲まれていて、静かに過ごす時間があまりありません。わたしも仕事をため込む癖がありますから、たまってしまうと、結局いつも仕事と時間に追われているなんてことがあります。しかし、それでもなお、わたしはみなさんに、静かに聖書と向き合う時間を過ごすことをお勧めいたします。特に忙しい方ほどお勧めいたします。ある程度の長さのお話を読み、それについて思いめぐらせるのです。「来て、見なさい」ではなく「やって、出会いなさい」とでも言えるでしょうか。いろいろ考えちゃってダメなこともよくあるんですが、それでも一歩、イエスに向かって歩み出してみませんか。わたしも、今年一年を、じっくり聖書と向き合い、思い巡らす時間を大切にしながら、みなさんと共に過ごしていきたいと思います。

1/11

1/11 洗礼の記憶  マルコ1:7~11

 今日の主日はイエスが洗礼を受けた記念の日。洗礼を受けた時、聖霊が降り、人々の前に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたことの記念の日でもあります。イエスが活動した日々のことを、“公生涯”と言うことがありますが、その“公生涯”の始まりの日であり、人々の前に救い主として姿を現した初めの日でもあります。
 わたしもそうなのですが、聖公会には幼児洗礼の習慣が残っていますので、もしかしたら洗礼を受けた時のことを覚えていらっしゃらない方もいるかとも思いますが、みなさんは自分が洗礼を受けた時のこと、それを決意したときのことを覚えていらっしゃるでしょうか。水が頭にかけられる、もしくは全身を浸した人もいるかもしれません。その方法いかんにかかわらず、洗礼を決意したとき、その時、どんな思いを抱いていたか思い出せるでしょうか。幼児洗礼でおぼえていませんと言う人は、堅信の時を思い出してみるといいでしょう。はるかな遠い記憶かもしれませんが、頭に手を置かれ、聖霊の助けを祈られた時のことは、少なからず記憶にあるのではないでしょうか。
 イエスは、この洗礼によって、自らが神の子であると示し、世界に向かって働き始めました。もちろん最初は荒れ野に行ったわけですが、その前にイエスは確かに自分を現されたのです。それまでの“大工の子”であり、家族を支える者であったイエスは、洗礼によって、そして聖霊を受け、新たな道、救い主としての道を歩もうとします。ある意味、イエスとしても“新たに生まれた”そんな時であったのです。
 わたしたちもまた、洗礼によって新たに生まれたはずです。水の中を通って、新たに生まれ、聖霊を受けて歩んでいるはずなのです。しかし、それは日々を過ごしていく中で遠い記憶になり、自分が新たに生まれたことの実感を持てないかもしれません。しかし、イエスの洗礼を記念するとき、わたしたちはその洗礼の記憶を新たにすることができます。もちろん“新たに生まれた”とは言っても、一気に生まれ変わるわけではありませんし、人が変わったように善人になるわけでもありません。しかし、洗礼(または堅信)の記憶は、わたしたちをいつでも、少しずつ新たにしていく力を持っています。どうぞ、自分がかつて洗礼を受けた時のことを思い出しながら、新しい年の一歩を踏み出してまいりましょう。

1/6

1/6 光に照らされて  マタイ2:1~12

 今日は顕現日。星に導かれた博士たちが到着したのが今日であると言われています。またこの日は、地方によってキリストの誕生(クリスマス)を祝う日でもありました。12月25日ではなく1月6日にクリスマスをお祝いしていたのです。(今でも1月6日にお祝いするところがあります) さらに、また今日はイエス・キリストの洗礼と結び付けられた記念日でもありました。“イエス・キリストが人々の前に姿を現した“ことから“公現祭”と言われていたようです。ちなみに今の聖公会の暦では、次の主日がイエスの洗礼の記念日になっています。こうやって、それぞれの祝日の謂れや、その意味を調べてみるのもおもしろいものです。
 新しい年に、いろいろなことを最初にすることを“初○○”と言いますよね。“書初め”とか“初競り”なんてありますし、“初笑い”なんて言い方もあります。初めて何かをするということには、特別な意味があると考える人が多いということでしょう。
顕現日というのは、様々なものが「新たに顕れる」ことを象徴している日であり、特に三人の博士と、それを導いた星に関連付けられています。特に、その星は重要です。博士たちを導くほどはっきり見える大きな光が、世に現れたのです。そして、その光は異邦人を照らす光となりました。
ユダヤの人々は、メシア(救い主)を“自分たちだけを救ってくれる人”と考えていました。だからこそ、異邦人(外国人・ユダヤ人以外の人々)と交わることをなるべく避けるような律法まであったのです。しかし、星の光が届いたのは、異邦人である三人の博士たちでした。今日の祝日は、ユダヤ人に対する異邦人であるわたしたちのところにも、救いの光が届くということを示しているのです。そして、それは世界中のすべての人々を照らす光ともなりました。
年の初めに、世の中を照らす救いの光が初めて世に現れたことを記念する日、顕現日を祝うということは、教会にとってとても大きな意味があります。クリスチャンで歩かないかに関わらず、光は平等に照らします。初めてその光が世を照らした時、気が付いたのは、遠く東の国の博士たち、異邦人の代表としての人々でした。もしかしたら、今その光に気が付くのは、教会から遠く離れた人なのかもしれません。だからこそ、わたしたちは世の中にあって、多くの人を迎え入れる、その光に気づいてもらうように、教会としてあらなければならないのではないでしょうか。
光は世に現れました。初めて世に現れました。一年の初めに、その光を受け、わたしたちももう一度、その光が誰に現れたのかを思い起こし、今年の歩みを進めてまいりたいと思います。

1/4

1/4 イエスの招き  マタイ2:13~15,19~23

 クリスマスが終わり、新年となって最初の主日。この週の福音書は毎年このマタイによる福音書。マリアとイエスがヨセフに連れられてエジプトに逃げる場面です。
 イエス・キリストは神であるのですが、クリスマスに赤ん坊として生まれます。守られなければならない存在としてヨセフに守られ、人として成長していきます。でも考えてみればおかしな話です。なんで守られる存在でなければならなかったのか、少し考えてみましょう。
 一つはヨセフという人を、神になぞらえているということがあげられるでしょう。どんなことがあっても自分の家族を守る存在として、またどんなことがあっても自分の家族を見捨てない“父”として、誰をも守り、誰をも見捨てない“父なる神”の一つの側面の現れとして、ヨセフはあったのです。ヨセフについての記述は、マタイによる福音書ではこれ以降出てきません。早世したとも言われており、イエスが世に出てくるころにはもういなかったようです。
 赤ん坊に限らず、子どもというのは守られるべき存在です。親から、周囲の大人たちから守られています。もちろん個々の状況というのはあるでしょうが、小さい子どもがいたら、守ろうとするのはある意味で人間の本能とも言えるでしょう。反対に、神さまというのは、頼られ、また人を守ろうとするはずのものであります。祈りの中で、わたしたちは自分たちを守ってほしい、また支えてほしい多くのことを言いますよね。でも、神に対して、守ってあげよう、そばに居ようとはあまり思わないのではないでしょうか。ある意味で神さまというのは、人に対して一方的に何かをしてくる、そんなものであると考えがちです。しかし、よくよく考えてみますと、イエス・キリストは、人に守られ、人に導かれて大きくなった存在であることがわかります。それはクリスマスから続く一連の話の中でそうわかります。幼子として生まれ、親に守られて危機を逃れ、成長します。また親の職業を継ぎ、自分の弟たちを養います。わたしはこう思うのです。「イエスは、実は自分も守ってほしくて、また導かれるために、この世に来たのではないか」「人に何かを与えることだけでなく、与えられるためにも存在するのではないか」と。そうでなくては、イエスが本当に人としてこの世にいたということがなくなって、ただ神としての存在だけしか残らないのではないかとも思うのです。むしろ、わたしたちが「主イエスキリストよ、おいでください」と礼拝の初めに唱える時、イエスに対しても、「独りではない、みんながいるからこちらにいらっしゃい」と呼びかけていることになるのではないでしょうか。ちょっと情けないイエスの姿もそこには見えるかもしれません。しかし、完璧超人なだけではどうも親しみが持てないと思うのです。もちろん、わたしたち一人一人の力はそんなに強くありませんが、共にいる多くの人々と力を合わせて、ほんの少しだけでもイエスを守ることができるような気がするのです。わたしたちの「イエスに対してなにかをしたい」と思う心は、教会となり、またイエスの様々な働きを支えてきたのではないか、と思うのです。それは小さな力ですが、共に手をとりあって、イエス・キリストのために進んでまいりたいと思うのです。

1/1

1/1 イエスの名によって  ルカ2:15~21

 今日は元旦。キリスト教にとっては「主イエス命名の日」と言い、幼子が誕生から8日後に“イエス”と名付けられたことからきている大切な祝日です。
 わたしたちが祈る時、イエスの名によって祈っていますよね。なぜそうするのか、考えてみたことがありますか。もちろん、それはイエスが「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」という聖書の言葉によっているわけですが、それだけではありません。今日名づけられたイエスの名前と関連があります。
 そもそも、名前を呼ぶということはどういう意味があるのでしょうか。古来、人の社会で、「名前を呼ぶ」とか「名前を付ける」ということは、その相手を支配することと考えられていました。日本でも「忌み名」とか「忌み言葉」という習慣がありますよね。明治の半ばくらいまでは、直接本名を呼ぶことを極端に避ける傾向があったようです。直接本名を呼んでいいのは親や主君だけ。名前=魂と考えられていたことから来ているんですね。例えば忠臣蔵で有名な吉良上野介ですが、上野介は役職名で、本名は義央(よしひさ)というそうです。もしかして、会社なんかで名前じゃなくて役職で呼ぶのもその辺からなのかもしれませんね。ちなみに女性に関しては名前を知らせるのは親と配偶者のみ、名前を聞くこと=プロポーズなんて時代もあったようです。名前を呼び合うのはごく親しい間柄に限られていたわけです。
 名前には意味があり、その意味を口にしていいのは自分の親しい人だけである、というのは洋の東西を問わずの習慣です。アメリカなんかだとそうでもありませんが、いきなり人のファーストネームを呼ぶというのは、実は失礼にあたる場合が多いのだと聞きました。また、短縮形と呼ばれるあだ名のようなものも公的に通用しており“その名前で呼んでくれ”なんてことも多いので、ややこしいのですが。
 話は少しそれましたが、わたしたちがイエスの名前を呼ぶということは、イエスが“わたしたちにとって親しい人である”ということを示しています。またイエスの名前の意味そのものも大事です。イエスという名前は“神はわたしの救いである”もしくは“神がわたしを救ってくださる”という意味があります。イエスの名によって祈る時、わたしたちは知らず知らずのうちに自分の信仰を告白しています。イエスを親しい方として、自分の身内のように呼びかけ、“神がわたしを救ってくださる”という信仰を新たにしているのです。イエスの名によって祈るということは、イエスがそうしなさいと言ったからだけではなく、わたしたちの信仰が新たになり、またイエスがますます自分の身近に感じられるようにという意味があるのです。
2015年、新しい年が始まりました。“一年の計は元旦にあり”とも言います。わたしたちは、この新しい年も、イエスをますます身近に感じつつ、“神がわたしを救ってくださる”という信仰を新たにしつつ、繰り返しイエスの名前を唱えて歩んで行きたいと思います。

12/28

12/28 恵みの上のさらなる恵み  ヨハネ1:1~18

 2014年ももうすぐ終わり、聖ルカ教会も60周年の記念の年を終え、新たな歴史を紡いでいくことになります。考えてみれば60年続いたというのは、人の寿命は長くても120年というところでしょうから、その半分の時間をこの教会は過ごしてきたことになります。何かを積み上げるのに十分な時間です。
 イエスが来る前、ユダヤの人々は律法に従っていました。律法と聞くと、わたしたちは“縛られる”とか“固い”とか、そういったイメージを描くと思います。“決まり事で形式ばっかり”と思ってしまうこともあります。しかし、本来律法というのは、ユダヤの人々に“恵み”として与えられたものだったことを思い起こす必要があります。モーセに率いられ、エジプトを脱出したイスラエルは、シナイ山で神から十戒をいただきます。また他の決まりもその時にいただきます。自分たちを導くものとして、また周辺の民族との違いをはっきりさせるものとして、律法は重要であり続けました。しかし長い時の中で、その意義が少しずつ変わっていってしまったのでしょう。イエスは律法を批判しましたが、律法そのものを批判したというより、それが定められたときの心を、状況を思い起こしなさいということであったと思います。安息日問答なんて、まさにその通りだと思います。
 わたしたちもまた、伝統の中に生きています。教会の中で何の気なしに始めたことが、年月が経つにつれて伝統となっていきます。それが現実と合わなくなってきたとき「伝統」か「現実」かということで、教会内が争いや誤解に満ちてしまうことってありますね。例えば「塗油」の式という式がありますが、かつてはこれを「抹油」と言い、死の間際に塗るものとされていました。しかし、本来は、聖別された油に癒しの力があるということで、病気になるたびごとに塗り、司祭に癒しを祈ってもらったということから来ているのです。もともとオリーブ油は薬としても使われていたこともあるでしょう。そんなわけで、司祭が油持ってきても怒らないでくださいね。祈祷書にもそういう式として解説されているので見てみてください。話はそれましたが、わたしたちにとって「伝統」というのは恵みであり、本来の意味を見出すことができるのならそれは恵みであり続けるということです。
 そして、わたしたちは「恵みの上にさらなる恵み」を受けています。律法をイエスを通してみるように、わたしたちの教会や周りの様々なことも、本来の意味を見出すように見てみるとだいぶ違ってくるのではないでしょうか。古臭いと思っていたことも、光が当たるのではないでしょうか。今あるものを見直していくこともできるのではないでしょうか。今この場所の伝統が悪いのではなく、その本来の意味を見出していくことで、多くのものを生かすことができるとわたしは思います。そしてまた、本来の意味を見出すのならば、大胆に変えていくこともできるでしょう。わたしたちもまた、「恵みの上のさらなる恵み」を通して様々なものを見ながら、「恵み」を「さらなる恵み」に変えていきながら、新しい一年を迎えたいと思います。

12/25

12/25 言葉が現実となった   ヨハネ1:1~14

 今日読まれたのはヨハネによる福音書の最初です。この部分を読んでいると、少し気づくことがあります。それは「言」という単語の使い方です。普通「ことば」と音を発するときは、「いう」に「はっぱ」を付けて、言葉と読みますよね。でも、この部分は「言う」一文字だけで「ことば」と読ませているのです。
 聖書の一番初め、創世記は「初めに神は天と地を創造された」という言葉から始まります。ヨハネの福音書の最初は「初めに言があった」ですね。よく似ているというより似せているわけですけれども、さらに、創世記の出来事を追ってみますと、神が「○○あれ」と言うとその言葉が現実になる。神さまの言葉はことごとく実現している。何か行動をするのではなくて、神さまは「ことば」によって世界をお創りになったということがわかります。言葉が現実となる。まさに「初めに言葉があった」のです。その神さまの言葉を「言」と一言で表記することにしたわけです。それが「言」という単語の使い方なんですね。そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と今日の福音書は結ばれています。それがクリスマスの出来事。神と共にあったはずの言が、人間としてわたしたちのところにやってきた、世に誕生したということです。
 イエスは言葉で多くのことを成し遂げています。例えば癒しの時、「立って床を担いで歩きなさい」と言えば病人が起き上がり、「静まれ」と言えば嵐は凪になり、「出てきなさい」と言われた死者は墓の中からよみがえります。イエスの言葉はことごとく現実となります。まさに彼自身が「言」である、そのように聖書では描かれています。
 イエスほどではありませんが、わたしたちの語っている「言葉」もまた現実になることがあります。言うだけでは何もならないと思ったことも、言い続けることで行動する原動力になることもあります。「○○になりたい」という希望を言い続け、それがもし行動につながるなら、わたしたちはたいていのことを成し遂げることができます。この場合、まず口に出してみなければはじまりません。「言葉」というのはわたしたちを動かす最初の力でもあります。もちろん現実を見ず、度を過ぎて楽観的なだけでは空虚な言葉になってしまいますが、それでも「前に進もうとする言葉」の力の強さは侮れないものだと思っています。
 反対に考えれば、言葉はまた、わたしたちの動きを止めることもできます。「ダメだ」「無理だ」「厳しい」と思ったことを口に出してしまうと、どんどん「ダメなんじゃなかろうか」という思いが強くなって動けないなんてこともありますよね。自らが口に出す言葉も、聞く言葉も、わたしたちに大きな影響を与えるということなのです。
 教会の信仰は、古来より言葉に言い表すことを大切にしてきました。“○○がしたい”“○○してほしい”という欲求を、また自らの様々な思いを、プラスのこともマイナスのことも、言葉に出すことを大切にしてきました。しかしそれはまたもろ刃の剣でもあります。いい言葉だけならいいですが、ネガティブな言葉が多くなってくると、人は必ず疲れてくるものです。わたしは、教会がいつも元気であってほしいと願っています。「神の言葉は現実となる。」それがイエスの受肉、クリスマスの出来事です。わたしたちの聖ルカ教会が元気になるように、みなさんと共に、手を尽くしていきたいと思うのです。