日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

5/17

5/17 真理によって   ヨハネ17:11c~19

 木曜日の昇天日に、イエスは天に帰られました。今日を含む10日間が聖霊を迎える準備にあてられます。でもイエスが天に帰り、聖霊も未だ来ていないこの10日間は何となく心細い日々であるようにも思えます。しかし、使徒言行録でも読まれた通り、最初の弟子たちは恐れることなく、ユダの後任を選び、主の復活を述べ伝えることに専心するのです。その強さはどこから来るのでしょうか。
 今日の福音書はイエスの告別説教の最後の部分であり、イエスが残していく人々のために神に祈りをささげる場面です。つまり、今もなお地にいるわたしたちのために祈る場面です。イエスは「あなたが与えてくださったみ名によって彼らを守りました」と言い、神のところに帰るので「わたしに与えてくださったみ名によって彼らを守って下さい」と祈ります。イエスの名。わたしたちが祈る時に唱えるイエスの名は、わたしたちを神が守って下さるしるしです。わたしたちが普段から何気なく口にしているイエスの名によって、聖霊降臨日に聖霊が遣わされ、今も、わたしたちと共にいるのです。
 イエスはまた「真理によって彼らを聖なる者としてください」と祈っています。“真理”と聞くと何やら難しいもののような感じもしますが、決してそうではありません。何か求めて求めてやっとたどり着くようなもののような気もしますがそうではありません。“真理”とは神さまのみ言葉であり、わたしたちの身近にあるものです。わたしたちが普段目にする聖書の言葉、古くから伝えられてきた主の祈りや使徒信経・ニケヤ信経などの祈りの言葉、こういったものの一つ一つがわたしたちを守る“真理”の言葉なのです。わたしたちは実に、多くのものに守られています。だからこそ、最初の弟子たちも恐れることなく、神さまのみ言葉を信じ、イエスの約束に励まされて、主の復活を述べ伝えることに専心し、そこに聖霊がやってきました。
 わたしたちのところには、既に聖霊が遣わされています。わたしたちを守るため、支えるため、励ますために遣わされています。“真理”である神のみ言葉も共にあります。そして来週の聖霊降臨日がやってきます。わたしたちと共にある聖霊を今一度お迎えする備えをしつつ、その時を迎えましょう。父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。

5/10

5/10 主による任命   ヨハネ15:9~17

 宗教というのは“自らの選択の結果として信仰するものである”と、多くの人は考えています。憲法にうたわれている「信教の自由」もそのような発想に立っています。しかし、キリスト教の考え方は少し違います。それが今日の福音書で読まれた「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」というイエスの言葉に凝縮されています。でも、この考え方はなかなか腑に落ちませんよね。わたしたち人間の“自由な意思”というのはどこへ行ったんだ、と思われるかもしれません。
 しかし、“わたしたち自身より、神の方がわたしたちのことをよく知っている”というのは、神と人間との関係を思い描く時の前提です。わたしたちが求めたり、思い描いたりすることをはるかに越えてよく計らってくださるのが神であり、わたしたちはそのことを知っているはずです。でも、わたしたちはなかなかそう思いきることができない。委ねきることができないのではないでしょうか。
 この「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」という言葉の射程はどこにあるのでしょうか。今、キリストを信じる信仰を持っている人たちだけに対してでしょうか。それとも違うのでしょうか。
 このイエスの言葉は、すべての人に対して向けられている言葉であると、わたしには思えるのです。キリストを信じる信仰を持っている人といない人との違いは、単純にそれを知っているか知らないかの違いだけ。わたしたちのことを選んでくれた神に、これからを委ねようと決意をしたかどうかの違いなのです。神が愛であるのなら、その愛はすべての人に向かうものであるはずだからです。また、神が裁く神でなく赦す神であるならば、すべての人に対してその手を差し伸べ続けているはずだからです。神の掟は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」ということであり、すべての人の底には“互いに大事にし合う心”があるはずだからです。
 すべての人は神によって選ばれています。「互いに愛し合いなさい」(大事にし合いなさい)ということを実践し続けるように任命されているのです。あなたも、あなたの目の前にある人も任命されているのです。誰もが任命されており、一つも例外はありません。ただ、その命令に気づいているか気づいていないかということだけです。
 「わたしがあなたがたを選んだ」というイエスの言葉を胸に、これからの日々を進んでいきたいと思うのです。

5/3

5/3 わたしたちの中にいる霊    ヨハネ14:15~21

 いよいよ来週の木曜日が昇天日。イエスが天に帰る日です。復活後の祝いの週も一段落。その次の聖霊降臨日で終わりになります。その直前の月曜日から水曜日までの三日間を昇天前祈祷日として祈る習慣があります。毎年時期が変わるので一概には言えないのですが、ちょうどヨーロッパでは大体この時期が種を蒔いたり苗を植えたりする時期にあたることから、豊作を祈る習慣があります。このあたりでもそろそろ畑を起こす時期でしょうか。古来の習慣にならってお祈りして始めるのもおもしろいですね。
 今週読まれた福音書は、イエスが最後の晩餐の時に弟子たちに語った“告別説教”と呼ばれる部分の一部です。もうすぐ天に帰られる時期にふさわしい部分です。イエスはその中で“霊”について語っています。つまり、再来週の聖霊降臨日にわたしたちのところに下される聖霊についてです。
 イエスが天に帰ってから2000年ほどの時が流れました。聖霊が共にいるとイエスは言い残してくださっていますが、2000年という時の長さは想像もつきません。わたしたち人間の寿命をはるかに越えていますから。イエスが天に昇られた直後ならいざ知らず、これだけ時代が移り変わり、技術が発達し、人の流れも変わった今、聖霊がそばにいることを正直あまり感じられないと思うことはないでしょうか。気をつけていないと聞き逃してしまったり、見逃してしまったり、聞こえているけれども無視してしまったりするのではないでしょうか。まさにわたしたちは“みなしご”になってしまい、自分の足で歩いて行かざるを得ない、そんな風にも思えます。だから誰の助けも借りず、自分の力で、自主独立で、謂れのない援助は受けずに歩いて行くのだと考えるのは、現代の世相とも相まって普通の考え方に思えます。もう“聖霊”など時代遅れ、そんな抹香臭くてカビの生えたようなものなどいらない、とまで言える人々もいます。
 しかし、イエスの言い残して行ったとおり、聖霊はわたしたちの内側にいます。今も、そしてこれからも。イエスが、神が、わたしたちを「みなしごにしてはおかない」と明言しているのですから、確かにそこにいるはずなのです。しかし、今の時代、わたしたちはとても忙しく、やらなければならないことがたくさんあり、それを次々にこなすことで身の証を立てているとも言えます。どれだけ短い時間でどれだけたくさんのことを成し遂げたか、それが評価される時代にあって、小さな、ささやくような聖霊の声に耳を傾けている時間が惜しい、いやそのことを忘れてしまう、そんなこともあると思います。今はとてもやかましい時代です。どこへ行っても携帯で連絡が付き、返事がない事を責められる、そんな時代です。街中ではそこかしこでBGMが鳴り響き、鳥の声を聞く間もないほどです。しかし聖霊のささやく声を聞くためには、わたしたち自身が静まらなければなりません。楽な姿勢を取り、呼吸を整え、気持ちを静める。最初は次々に浮かび上がる心の声に振り回されますが、その中に、聖霊の静かにささやく声が聞こえるはずです。その聖霊が、見えにくいところでいつもわたしたちを支えています。それこそが、神がわたしたちに与えてくれた大いなる恵み(Amazing Grace)です。わたしたちの行いの対価ではなく、どんな人にでも謂われなく与えられている恵みなのです。わたしたちの中にいる霊の声を聞き、日々の歩みを続けてまいりましょう。

4/26

4/26 羊の群れと羊飼い     ヨハネ10:11~16

 「わたしはよい羊飼い」とイエスは語ります。有名な言葉ですよね。北海道で有名な食べ物と言えば、その中に必ずジンギスカン(羊の肉)が上がるくらい羊というのは“身近なもの”と思えますが、街中に住んでいると羊や、それを飼っている人たちというのはなかなか見ないものです。しかも日本ですと、羊飼いが連れ歩くというよりは小屋を作って放牧という感じなので、いわゆる“羊飼い”(遊牧民)の生活を目にする機会というのはほとんどありません。“羊飼い”は自分の羊を知り、羊も羊飼いを知る、というのは遊牧生活だと当たり前のことです。草を求めて移動し、24時間365日寝食を共にする。どんなに嫌だとしても、これだけ顔を合わせていれば、お互いに相手のことがよくわかるようになります。そうでなくては、たくさんの羊の中からいなくなった1匹の羊を見分けることなどできません。羊にとっても、羊飼いについて行かなくては死活問題ですから、否が応でも羊に注意を払い、ついていくことになります。また羊同士も一緒にいるわけですから、お互いの様子がわかってしまいます。こうして群れは一体感を増していきます。群れの中に新しい羊が迎えられることもあるでしょう。生まれることもありますし、新たに購入した羊が加わることもある。でも、一緒に行動しているうちに、やはりお互いが分かってきて一体となっていく。羊の群れはそんなダイナミズムを持っています。
 神学校は3年間の寮生活でした。特に1年次は夏季休暇の半分は学校の実習で一緒。一年のほとんどを一緒に過ごすことになりますから、同級生のつながりというのは非常に強くなるんですね。正直考え方にあまり賛成できない人もいるのですが、それでもお互いに相手のことがよくわかるようになりました。久々に神学生らしい神学生の学年で“仲が悪いのに妙な一体感がある”と評される学年になりました。
 教会のことをよく“羊の群れ”に例え、牧師を、まぁその名前のとおり“羊飼い”ととらえる見方をします。でも、本来わたしたちにとっての“羊飼い”はイエスただお一人だけなのではないかと思うのです。牧師もまた羊の群れの中の一匹であり、ある意味でその群れに新たに加わった羊と言えるのではないでしょうか。
 “羊の群れ”の目線はいつも“羊飼い”であるイエス・キリストに向いています。そうでなくては自分がはぐれた羊になってしまいます。そして、自分の目線がイエス・キリストに向いているからこそ、わたしたち羊の群れは一体となることができるのです。イエスに目線を向けるというのは、わたしたち自身の普段の生活に祈りを取り入れることです。洗礼の時に誓ったように“神の助け”によって生きることです。羊飼いであるイエスに目を向けながら、日々の歩みを進めてまいりたいと思います。

4/19

4/19 心の目を開く      ルカ24:36~48

 復活したイエスは、多くの弟子たちに現れました。先週のトマスもそうでしたが、今日読まれた個所でも、弟子たちはイエスが本当に復活したのかと疑います。イエスもそれはわかっていたのでしょう。トマスにしたのと同じように手足を見せ、魚を食べて見せます。実体のないものであれば、食事をする必要はありませんから、ある意味で一番わかりやすい方法だったかもしれませんね。そして、イエスは聖書の中で、自分について書いてあるとことについてお話をします。
 わたしたちのところにもこの聖書は伝わっているわけですが、どうでしょうみなさん。聖書って、読んでぱっと意味が分かるものでしょうか。わたしもそうですが、みなさんも、ぱっと意味が分かるとは言い難いものではないでしょうか。少なくともわたしは、聖書の隅々まで自信を持ってわかるとは言えません。わたしもみなさんにお話しする時、自分でじっくり読み込むこともそうですが、聖書について書かれた様々な本も読んでみます。それでもなかなか“ストン”と落ちた気にならない時も多いのです。3年サイクルの聖書日課ですから、ちょうど3年前の自分の説教を読んでみることもできるのですが、たまになんで“こういう表現をしたのだろう”と自分で思うこともあります。ある意味でそのくらい、その時の読む人の状況に合わせて、立ち上がってくる意味が変わってくるのが聖書と言うことができるでしょう。
 今日の福音書の一節にこうあります。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」 つまり、イエスが弟子たちに聖書の意味を知らせた時、彼らの心の目は開かれた状態にあったということ。聖書から立ち上がってくる意味を捉えるには、心の目が開かれていることが必要だった、ということです。でも、それじゃあわたしたちは困ってしまいますよね。だってイエスがいつも目の前にいて心の目を開いてくださっているわけではないのですから。今を生きるわたしたちにはできないのだろうか、とも思えてしまいます。
 しかしそうではありません。なぜならば、そのためにこそイエスは復活し、天に昇り、聖霊を遣わしてくださったからです。つまり、イエスがいつもわたしたちが聖書にじっくりと向かい合う時、心の目を開いてくださろうとしているということなのです。わたしたちの心が、本当に聖書を求めている時、イエスがそっとそばに来て、わたしたちの心の目を開いてくださるのです。かえって純粋に求めるみなさんと違って、“何を話そうか”とかの邪念の多い牧師こそ、なかなか心の目が開かれないのかもしれませんね。それでもなお、わたしたちもまた、イエスによって心の目が開かれるのを待ちながら、日々の生活の中で少しずつ聖書に向き合ってまいりましょう。

4/12

4/12 信じるということ       ヨハネ20:19~31

 イエスの十字架の時、逃げ去ってしまった弟子たちが部屋に閉じこもっているところにイエスが現れる場面。復活節第2主日は、必ずこの箇所が読まれることになっています。“トマスの疑い”と呼ばれる有名な場面も今日の朗読箇所に含まれていますね。
 トマスの言う「見なければ信じない」という姿勢は、わたしたちにとってはある意味でなじみ深いものです。様々な者に対して証拠を提示し、立証するという姿勢は、わたしたちの社会の隅々にまで行きわたっています。CMなんかでよくありますよね。「こんなにひどい汚れ、どうしますか? 普通の洗剤では全く落ちません。しかし、この洗剤ならご覧のとおりピカピカです。」 こんな言葉はありふれていて、むしろわたしたちは“見ても信じない”方が多いかもしれません。いやむしろ“確かめようともしない”(無関心)のかもしれませんね。
 そもそも“見た”ということは“信じる”ということとイコールで結ばれているわけではありません。例えば物などで証拠が簡単に提示できるならいざ知らず、人を“信じる”という場合、例えば待ち合わせの時、絶対に相手が時間通りに来て待っているという保証はないですよね。でも基本的にわたしたちは疑うことはせずに(可能性はあえて無視して)待ち合わせ場所に出かけますよね。本来“信じる”ということに、“証拠”は関係ないのです。逆に“見る”ことで、騙されてしまうこともあります。“空中浮遊ができるから本物”ということで、ついて行って信じてしまい(トリックがあったわけですが)テロの片棒を担がされる、なんてこともありました。“信じる”ということは、わたしたちの心の動きそのものであり、“見る”こととは実はあまり関係がないのです。トマスもイエスを信じたのは“見た”からというより、“言葉をかけられた”ことのウエイトの方が大きかったのではないかと思います。「信じる者になりなさい」というイエスの言葉がその時実現したのです。
 イエスがトマスにかけた「信じる者になりなさい」という言葉はわたしたちに対しても響いています。イエスは復活によって、いつでもどこでも、わたしたちのところに来ることができるようになりました。わたしたちもまた、見ないのに信じる信仰を持ち、日々の支えとしたいと思います。

4/5

4/5 キリスト復活、実に復活     マルコ16:1~8

 本日はイースター。復活の喜びの朝を共に迎えられたことを感謝いたします。クリスマスの方ばかりが有名ですが、イースターこそ教会の一番大切なお祝いであり、信仰の基礎であります。
 しかしみなさん“復活”と聞いてどう思われるでしょうか。クリスマスの“誕生”に比べると、わたしが言うのもなんですが“うさんくさい”とか“ありえない”と思うのではないでしょうか。生物学的に申しましても、一度息の止まったものが息を吹き返す、復活するというのは本来ありえない事象であることははっきりしています。「この“復活”さえなければキリスト教を信じられるんだけど」と言われたこともあります。科学的に説明しようと試みた入門書などもあるのですが、あくまで想像の域を出ません。
 では、キリスト教の信仰自体が“迷信”ということになってしまうのでしょうか。わたしはそうではないと思います。少なくとも、マグダラのマリアをはじめ、多くの弟子たちに現れた。弟子たちは見てしまったのです。多数の人々が、たくさんの場所で“復活のイエスに出会った”と実感したということ、これはとても大切なことだと思います。そうでないとイエスが十字架にかかってしまった時、“つかまったら自分たちも殺される”と思って逃げてしまった弟子たちが、“つかまって殺されてもいい”“それで終わりではない”と思って再び活動を始めたという大きな変化の説明がつきません。また“師を見捨てて逃げてしまった”という後ろめたさにとらわれるのではなく、前を向いて生きはじめたということも言えるでしょう。少なくとも出会った人々にとっては真実であったということ。そして、それは今この場にいるわたしたちにとっても真実であるということがとても大切なのです。
 ハリストス教会で、復活祭において「ハリストス復活」と誰かが言うと「実に復活!」と返すあいさつがあるそうです。「ハリストス」はロシア語読みでキリストのことです。わたしたちの習慣に合わせて言い換えると「キリスト復活」「実に復活!」という言い方になるでしょうか。少し耳慣れない表現ではありますが、わたしはこのあいさつの習慣はとてもいいものだと思います。キリストが復活したということ「キリスト復活」、それはわたしにとって真実であるということをはっきりと示す「実に復活」という返答。なかなか納得しづらいイエスの“復活”を実感できるあいさつであると思うのです。
 イエスの“復活”は、わたしたちのためでありました。イエスの“復活”によって、わたしたちの罪も取り去られ、前を向いて、これまでの生き方から転換して生きることができるようになりました。
 イエスは本当に“復活”された。わたしたちのために“復活”された。このように信じることが、わたしたちの生きる道に力を与えてくれます。最後にわたしたちもあいさつを交わし、イエスの復活を実感いたしましょう。「キリスト復活!」

3/29

3/29 繰り返し語られる受難       マルコ15:1~39

 本日は復活前主日。今日からイエスの受難を記念する“聖週”が始まります。復活前主日の福音書は、受難の物語が読まれることになっており、今年はマルコの受難物語が朗読されました。今週は教会にとって一番大切な1週間です。エルサレムへの入城から始まり、洗足、最後の晩餐、受難、そして復活へと続く、イエスの受難を“記念”する週であり、今日はその始まりです。
 わたしたちが普段何気なくしている礼拝の原点は、すべてこの聖週にあります。主日の礼拝は、特にイエスの受難と復活を記念するために行われますし、聖餐式の原点は、最後の晩餐にあります。また、「互いに愛し合いなさい」という、わたしたちが大切にしなければならないことが“洗足”には込められています。
 わたしたちは、これらの出来事を毎週毎週、繰り返して“記念”しています。“記念する”ということは、“忘れない”ということであり、“何度も思い出す”ということであり、そのことについて“語る”ということです。“わたしの記念として、このように行いなさい”とイエスが言われたように。
 考えてみれば、少なからずおかしなことだと思います。イエスが裁判を受け、十字架にかけられたことを、わたしたちは何度も“記念”しています。しかし“十字架にかけられる”ということは、“死刑になった”ということであり、とても不名誉なものです。イエスが受難の時までに行ってきた多くの活動はともかくとして、どうしてこのような受難の顛末をここまで克明に残したのか、と考えてしまいます。普通に考えれば失敗の記憶であり、なるべくなら隠したいものですよね。イエスだけならともかく、活動した弟子たち自身もみな逃げ去ってしまったと聖書には記されています。これを残しておいたら後の人に示しがつかないとか考えてもおかしくはありません。それでもなお、わたしたちはイエスの死を繰り返し“記念”します。読んでいると少し憂鬱になってしまいそうな箇所ですが、その“死”が、“復活”に続いていることを信じ“記念”するのです。何度も繰り返して。
 本当は“復活”の喜びだけを味わえればいいのかもしれません。伝えていけばいいのかもしれません。しかし、わたしたちの普段の生活は、もちろん喜びも多いですけれども、つらいことや悲しみもまた多いものです。いつも順風満帆とはいきません。いや、むしろ順風満帆で楽しい事ばかり、という時の方が珍しいでしょう。そう考えると、この“受難”の物語を何度も繰り返し“記念”することの意味も見出せるのではないでしょうか。
 聖週は始まりました。復活の喜びまであと少しです。この1週間は、1年間の信仰の歩みの大切な一里塚としてイエスのみ苦しみに触れ、思い起こす週です。そして、来週の復活日には、復活の大いなる喜びを高らかに歌い上げることができるよう、大いに物語ることができるよう、備えをしてまいりましょう。

3/22

3/22 救いの“時”     ヨハネ12:20~33

 先週水曜日は幼稚園の卒園式でした。全部で23名の年長組の子どもたちが巣立っていきました。たった一年の短い時間の交わりでしたが、彼らの持っている“時”を存分に感じた一年であったと思います。
 今日の福音書のテーマを一言でいうなら“時”ということであると思います。「人の子が栄光を受ける時が来た」とイエスは言い、「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と結びます。自らが十字架にかかり、“苦しみ”、天にあげられる“時”が来たのだとイエスは言うのです。その“時”というのは、イエスであってもできれば“避けたい”ものでした。『天の父よ、わたしをこの時から救ってください』と言い、また少し先の出来事ですがゲッセマネの園で「この杯を取り除けてください」と祈ったのですから。しかし“時”は来たのです。イエスはその“時”に向かって進んでいきました。
 幼稚園で子どもたちの写真を撮っています。毎日毎日撮っていると気が付かないものですが、アルバムを作るために写真を整理していますと、子どもたちの顔が大きく変化していることに気が付きます。4月、最初にあった時の顔は、驚くほど幼いのですね。卒園式を迎えた時の表情とは雲泥の差で、どの子も様々な経験という“時”を通って変化していった様子がうかがえます。どの子も何かのきっかけで劇的に変化する“時”を持っています。幼稚園というのはそれを間近で感じることができる場所であったと思います。子どもというのはどんどん変化していくものですが、わたしたち大人であっても同じことです。少し変化のスピードは遅いかもしれませんが、その“時”が来た時、大きく変化することができるのが人間です。
イエスはわたしたちに、十字架という“時”を通して救いをもたらしました。その救いはイエスが“したい”と思ったから、神さまが“救いたい”と思ったからであって、ある意味で人間にとって余計なお世話であるとも言えます。自分たちで楽しくやれるから神さまのことなど関係ないという人が、世の中にはたくさんいます。でも、それにもかかわらず神さまはわたしたちを救うため、イエスに“時”をもたらしたのです。
しかしその“時”というのは、流行の「今でしょ!」とは一味違います。それは、今すぐに、ノータイムで起こる出来事のことではなく、時間をかけてじっくりと実を結ぶ出来事のことです。イエスもその“時”が来るまでに3年間の公生涯と、30年余の私生活を過ごしたのです。イザヤの預言の時から数えても、ゆうに2000年以上の時を経て、イエスの“時”が与えられました。わたしたちも“今でしょ!”と焦るのではなく、じっくりとそれぞれに与えられる“時”を待ちましょう。その見分け方は、必ず、イエスがわたしたちに教えてくれます。

3/15

3/15 肉の糧と霊の糧    ヨハネ6:4~15

 本日読まれた福音書は“五千人の給食”。もう誰もがよく知っている物語。ここの礼拝堂の外壁にも絵がかかっていますよね。5つのパンと2匹の魚によって五千人の人々が満腹することができた、という不思議なお話です。そしてこの話で、わたしたちは単純に五千人の人と思ってしまいがちですが、「男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった」と書かれている通り、男が五千人なのであって、女性や子供の数は含まれていないということを忘れてはいけません。単純に計算しても一万人を超える人がいたであろう、そしてその人々も満腹したと考えると、本当にとてつもない物語です。
ユダヤの人々は、自分たちを救ってくれる救い主を、預言者を待っていました。イエスが病気を治すのを見て、イエスの方に大勢の群衆がやってきます。そしてある意味でイエスはその期待にはっきり応えたとも言えます。5つのパンと2匹の魚で群衆を養うことができるのですから、食べ物がなくとも彼について行けば何とかなる、そう人々も思ったことでしょう。病気の癒しと食事という“肉の糧”、実際に利益になることが群衆に与えられたのです。普通飛びつきますよね。“彼について行けば間違いがない”と、思うのは当たり前です。
しかし、イエスの目的というのは「人々を“肉の糧”で直接養うこと」ではありませんでした。もしそれが目的なら、イエスは十字架にかからずに、人々を癒し、パンを割き続けたでしょう。そうすれば多くの人々を直接助けることができたわけですから。しかしイエスはそうしませんでした。イエスはその後、さらにパンを求める群衆から離れて、一人山に登ったのです。
イエスの道は十字架に続いていました。十字架にかかることによって、イエスはより多くの人々をその“霊の糧”で救うことになったのです。そして今わたしたちは、イエスの十字架による“霊の糧”によって養われているのです。
“肉の糧”というのは、わたしたちに直接作用しますし、とってもわかりやすいですよね。「食べ物の恨みは怖い」とも言います。誰でもわたしたちは“自分のことにすぐ作用する”ものをもてはやす傾向があります。新しいものが出てきたときにすぐに飛びつきますが、しばらくすると飽きてしまったり、あらが見えてきて批判してみたりと、ある意味でとっても身勝手にふるまいます。わたしも例外ではありません。しかし、もしわたしたちがイエスに従うのなら“霊の糧”を求めることが大切だと思います。“霊の糧”は直接すぐに作用することはありませんし、時にとっても苦いものであったりもします。ぱっと見たところ損だったり、めんどくさそうだったり、みっともなかったり、そんな風にも映ります。しかし“霊の糧”というのは、継続的に積み重なって、わたしたちを徐々に変え、生かしていくものです。ただパンを求めた群衆は、直接の糧が得られないとわかると、イエスを十字架にかけるように叫びました。わたしたちも自分たちがそうなりかねないことをもう一度思い出し、イエスの“霊の糧”を求めてまいりましょう。

3/8

3/8 身体と言う名の神殿    ヨハネ2:13~25

 大斎節も3週目を迎えた今日。読まれた福音書は“イエスの宮潔め”。珍しく怒りをあらわにして暴れるイエスさまが描かれます。この“宮潔め”のエピソードは、珍しくすべての福音書で(時期は違いますが)取り上げられているお話です。それぞれの福音書のお話は細かい部分に違いはありますが、やはりどの福音記者から見ても重要だったのでしょうね。礼拝における聖書朗読は、毎週何らかの意図をもって配置されています。大斎節第3主日に必ずこの場面が読まれるわけではなくB年だけで、特にヨハネの物語が取り上げられていますから、他の福音書と違う部分が重要になってきます。では、何が違うのか。それはイエスが自らの身体のことを“神殿”という言葉で表しているところです。
 当たり前のことですが、わたしたちは一人一人、それぞれの身体を持っています。その身体は背が高かったり低かったり、運動が得意だったりそうじゃなかったり、病弱だったり健康だったり、それぞれ色々な形で、色々な仕方で存在しています。わたしたちは、今まで自分の身体と向かい合ってきたことと思います。自分でどうにもならない部分はありますが、自分の身体を生かすのも殺すのもまさに自分次第。考えなく適当に扱えば壊れることもありますし、大事にし過ぎてもダメだったりしますよね。
 わたしたちの身体は、それぞれが神の似姿として存在しています。神が人間を創造したとき「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われ、鼻に自らの霊を吹き入れて創造されました。その形を、わたしたちはそれぞれの仕方で受け継いでいるのです。つまり、わたしの身体もまたイエスと同じように、神の霊を宿した神殿でもあるのです。
 神殿にいた商人たちの商売は、神殿で神にささげるためのものを商っていました。遠方からいけにえの動物を担いでくるのは大変です。だから神殿の近くで販売する。両替もしかりです。きちんと理には適っていたのです。しかし、それにもかかわらずイエスは“宮潔め”によって商人たちを追い出しました。いくら必要とはいえ、流され過ぎてはいけない。なあなあで済ませられない部分というのがあるのだということです。
わたしたちの普段の生活はどうでしょうか。わたしたち一人一人の身体を“神の霊の宿る神殿”として大切にしているでしょうか。イエスが「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言って“宮潔め”を行ったように、わたしたちの身体もまた清められる必要はないでしょうか。ついついなあなあになってしまっている部分はないでしょうか。大斎節は短い時期ですが、イエスにならい、わたしたちもまた、自らの神殿を清めていきたいと思うのです。

3/1

3/1 神のこと、人のこと      マルコ8:31~38

 「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」イエスがペトロにかけたこの言葉はとても厳しい言葉です。その言葉は“とても正しく”“ぐうの音もでない”ものです。普段自分が、どれほど神のことを思って行動しているのか、思わず考えてしまいます。
普段の生活において、1週間、教会に来る時を除く時間、“いつも必ず神さまのことが念頭にある”という人は少ないでしょう。修道士で、修道院で生活しているというならいざ知らず、わたしたちの普段の生活の中で“神さまのことだけを考えて生きる”というのは不可能です。わたしたちが何かをしたり、決めたりする時に“神さまのこと”を念頭に置くよりは、そのことに関わってくる周りの人や、自分のことが念頭に置かれることがほとんどでしょう。神のことを思ってすべてを決めるというのは、とても難しいことです。
しかし、一方では“神のことを思う”のなら、自分を粗末に扱ってよい、周囲の人を粗末に扱ってよいというわけではありません。なぜなら、イエスがもっとも重要なおきてとして“隣人を自分のように愛せ”と言ったように、自分も自分の周囲の人をも大事にすることがないなら、それは“神のことを思っている”ことにはなりません。“自分を捨てる”とは、“自分のことをうっちゃっておく”のではなく、“自分も、自分の周りの人も、同じく神に生かされているものである”ということを“知り”、そのために“働く”ことだからです。
自分を犠牲にして何かをなすというのはとても尊いことです。しかし、もしもそれが周囲を見ずになされたことなのだとしたら、それは神のことを思ったことにはなりません。“わたしは自らを犠牲にしていろいろ働いたのだから、あなたはわたしのことを尊ぶべきだ”という人がいたとしたら、それがまさに“神のことを思わず、人間のことを思っている”と言うべきでしょう。もし“神のことを思って決めたのだから、あなたは従いなさい”というものの言い方がされるのだとしたら、それもやはり“神のことを思わず、人間のことを思っている”と言うべきでしょう。でも、これらのロジックは、割と教会の中にありふれているものなのかもしれません。残念ながら。
大斎節も第2主日になり、最初の1週間が過ぎ去りました。年に一度、わたしたちが自らの信仰を見直し、深く思い巡らす時期です。時に人里離れたところに退き、祈りの時を過ごしたイエスのように、わたしたちもまた“神のことを思う”時を、この時期にしっかりと持ちたいと思います。