日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

1/17

1/17 イエスを待つ母に    ヨハネ2:1~11

 本日読まれた福音書はヨハネによる福音書からカナの婚宴の場面。イエスがぶどう酒を増やす、あまりに有名な場面です。イエスの最初のしるしとされるこの奇跡。しかし、イエスはこの中で普通に考えるとちょっと奇妙な受け答えをします。マリアが「ぶどう酒がなくなりました」とイエスに言うと、イエスは「婦人よ」と答えるのですね。
 もちろん、婚宴の時にぶどう酒は主催者が用意するものですし、イエスには別に助ける謂れはありません。だからと言って「婦人よ」という返し方はあまり一般的だとは思われません。「母よ」とかならわかるのですが、思春期の子どもならいざ知らず、「婦人よ」というあまりにぞんざいな返し方が、この場面の中で不思議な違和感を見せています。なぜイエスはこんなぞんざいな返し方をしたのでしょうか。そこにはどんな意図が込められているのでしょうか。
 イエスは「婦人よ」と言った後、「わたしの時はまだ来ていません」と言い添えています。“時”とはいつなのかと言えば、それは神が決める事であり、自分が決めることではないし、あなたが決める事でもないということ。そして、わたしの働きではなく、その背後にある神さまのみ心を見なさい、ということを伝えたのです。母マリアにとって、神の子として生まれたイエスが「いつ」その働きをするようになるか、というのは重要な関心ごとです。馬小屋で、ある意味劇的な形でお生まれになり、そして少年の時には神殿でのやり取りがありました。しかしもう30歳。マリアという人はなんとも気の長い母だと思います。もちろん仕事をしていたので一般的な男性としては問題がありませんが、神の子として、救い主として生まれたはずがもうこんなに経ってしまった。しかし、それでも母は待ち続けました。でも、時に促してみたくもなったのでしょう。イエスは「わたしの時はまだ来ていない」という言葉で、「決して使命を忘れたわけではなく、神さまのみ心を待っているのだ」とマリアに伝えたのです。
 マリアはその意をくみ、イエスの指示に従うよう、召使たちに言いつけました。召使たちはイエスの言う通りにし、水はぶどう酒に変えられたのです。イエスは水のところで祈ったわけでも、イエスが水を汲んだわけでもありません。誰も知らないうちに、神さまは水をぶどう酒に変えられたのです。神さまのみ心の通りに。そしてイエスは救い主として働き始めました。
 神さまの力は、わたしたちが見ていないところで、見ることのないうちに働くことがよくあります。誰も知ることのないうちに、わたしたちの背後で、神さまの力は働いています。もしかしたら知らないうちに、わたしたちの周りでも奇跡が起こり、そして誰も知らないうちに神さまによって助けられているのではないでしょうか。そして、もしかしたらわたしたち一人一人にも、神さまのみ心のままに働くようにと呼びかけがあるのかもしれません。そんな神さまのみ心を示す出来事をマリアのように待ち望みましょう。

1/10

1/10 洗礼の恵み、火の力   ルカ3:15~16,21~22

 本日はわたしたちの主イエスの洗礼の記念日。先ほど読まれたのはルカによる福音書からイエスが洗礼を受ける場面です。考えてみれば不思議な場面ですよね。わたしたちはイエスさまを信じて洗礼を受けるわけですが、イエスは洗礼を授けたのではなく、イエスも洗礼を受けていたのです。民衆と一緒に洗礼を受けて祈っている様子が先ほど読まれましたね。
 イエスに洗礼を授けたのが“洗礼者”と呼ばれるヨハネです。ヨハネは言います。「わたしよりも優れた方が来られる。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」
 洗礼に聖霊が関係していることははっきりしています。イエスの洗礼の時にも「聖霊が鳩のように下る」場面が福音書に記されています。また、堅信式の時に「主よ、聖霊によってこの僕を強くし、ますます主に仕える者とならせてください」と言って手を置かれるように、洗礼・堅信という信仰を得ていく流れに、聖霊は深く関係しています。一方で、火はどう考えればいいでしょうか。「火の洗礼」って言葉もあるようですが、一般的ではありませんよね。
 「火」「炎」というのは聖書において、神さまの力を表すものです。モーセは燃える柴のところで神に出会いました。そして出エジプトのイスラエルの民を夜間に導いたのは火の柱でした。また“焼き尽くすささげもの”として、祭壇のところに火をもやし、神さまにささげています。そして大事なのは、使徒たちに降った聖霊は、燃えさかる炎の舌のような姿をしていたということです。聖霊は大地を渡っていく風であり、わたしたちの中から出て来る息であり、火を起こし、燃え上がらせるものでもあります。火もまた聖霊の象徴なのです。聖霊は空から降り、イエスに宿り、またイエスを通してわたしたち一人一人に力を与えています。ヨハネによる洗礼は、イエスを通して聖霊によって完成されました。だからこそイエスも民衆とともに洗礼を受けたのです。そしてまた、ずいぶん昔のことで忘れちゃっているかもしれませんが、洗礼を通して、わたしたちは聖霊の力を、その炎をこの身に受けているのです。
 毎年、わたしたちはイエスの洗礼を記念します。繰り返し何度も何度も記念します。それは、わたしたちに聖霊の力が与えられていることを、聖霊によってわたしたちが守られていることを思い出すためです。当たり前すぎて意識しないかもしれませんが、わたしたちは常に守られています。その聖霊の力、火の力を思い起こし、今年も歩み出してまいりましょう。

1/6

1/6 キリスト教の転換点    マタイ2:1~12

 今日は顕現日。星に導かれた博士たちが到着したのが今日であると言われています。またこの日は、地方によってキリストの誕生(クリスマス)を祝う日でもありました。12月25日ではなく1月6日にクリスマスをお祝いしていたのです。(今でも正教会など1月6日にお祝いするところがあります) さらに、また今日はイエス・キリストの洗礼と結び付けられた記念日でもありました。“イエス・キリストが人々の前に公に姿を現した“ことから“公現祭”と言われていたようです。ちなみに今の聖公会の暦では、次の主日がイエスの洗礼の記念日になっています。こうやって、それぞれの祝日の謂れや、その意味を調べてみるのもおもしろいものです。
 「顕現」というのは“姿がはっきり表れること”を示す言葉で、主に“神仏”が現れる時に使うようです。だからイエスさまに対しても使うんですね。なるほど、と思います。でも、なぜこうやってはっきり表れることが、大きな祝日になったのでしょうか。
 まず1つは、旧約聖書の神様ははっきりとした姿を現さなかった神さまだからということです。十戒でも偶像崇拝を禁じ、しかも名前を直接呼ぶことをも制限していったため、正確な読み方もわからなくなってしまいました。そう考えると、イエスという形で、具体的に神が人として、神の子として現れたというのは、とても大切なことになってきます。キリスト教がユダヤ教と分かれたのもここに大事なポイントがあります。また1つは、それまで神は“ユダヤ人の神“だったということです。それまでユダヤ人は異邦人(外国人)を明確に排除していました。もちろん、様々にまじりあっていた実態は会ったのですが、外国人の配偶者は離縁せよ、という命令を出し、人々が従ったと聖書にも書かれています。しかし、イエスのところにやってきたのは、三人の外国の博士たちでした。また、律法から弾かれていた羊飼いたちでした。つまり、イエスによってユダヤ人と異邦人という垣根が取り払われたと言えるのです。また律法の遵守を基準にするのではなく、神がすべての人の神になったのがこの顕現日だということになります。神の救いの対象が広がったと明確に示されたのです。この2つは大きな転換点であったことでしょう。
 今日は、神さまのみ心がはっきり示された日となりました。ユダヤの地から遠く離れたわたしたちをも、今、導いて下さっています。神さまのみ心を感じつつ、これからの1年を進んでまいりましょう。

1/3

1/3 夢に導かれて    マタイ2:13~15,19~23

 新年になって最初の日曜日。先ほど読まれたのはマタイによる福音書から、ヨセフ一家がエジプトへ逃れ、また戻ってくる場面です。ヨセフが前面に出て来る珍しい場面です。そもそもイエスの父ヨセフは、聖書にはほとんど出てきません。家族が会堂のイエスを迎えにくる場面でも、出て来るのはマリアと弟や妹たち。こういう場面ではまず父が出て来るものだと思いますが、全く出てきません。一説にはヨセフが早く亡くなったため、イエスは父ヨセフの仕事である大工を継いで、弟妹たちを養ったとも言われています。
 この場面をよく見て見ると、ヨセフが動く時は必ず、夢に天使が出て来るのがわかります。そもそも、マリアを迎え入れることにしたのも天使が夢に現れて告げたからでした。ヨセフという人は、徹頭徹尾、天使からの夢のお告げで動いていたのです。
 実は“夢”という言葉はそもそも新約聖書の中にほとんど出てきません。ヨセフが見た夢以外は、ピラトの妻が「夢で苦しめられた」と告げているだけです。ところが旧約聖書に目を転じてみると、様々な場面で“夢”に言及されます。よくよく調べてみると2つのことがわかります。1つは、旧約聖書は“夢”、特に“夢占い”に否定的だということです。申命記など、様々なところで“夢占いをする者に惑わされてはならない”という言及があります。2つめはそれとは逆に、夢に対して非常に肯定的なところもあります。そもそもヨハネやダニエルは夢の解釈によって大臣にまで登りつめています。またヤコブに対して、ソロモンに対して、神は夢で様々な事を告げます。つまり、“夢”それ自体が悪いわけではなく、夢のお告げがあるのは本人に対してだけで、それがわからない場合に解釈に頼る、と考えていいでしょう。
 ヨセフは夢に導かれてイエスを守り続けました。きっとそれはヨセフの後半生の大切な役割だったのでしょう。まだ小さいイエスのため、神は地上の父であるヨセフを夢によって助け続けたのです。ヨセフもまた、その“夢”に対して疑うこともせずに従ったのです。
 “夢”は、神さまが自分のみ心を人に示すための一つの方法です。ですからもし、わたしたちが何か“夢”で告げられたならば、ヨセフのように素直に従いましょう。頻繁に告げられることはないと思いますが、“夢”が告げる神さまのみ言葉にも、心を整えて待ち受けたいと思います。

1/1

1/1 名前を付けて、名前を呼んで     ルカ2:15~21

 一年の一番初めの日。イエスは名前を付けられます。クリスマスからちょうど1週間、わたしはクリスマスにとっても、今日のこの日は大切だと思っています。
 先日ニュースで「113番目の元素が発見され、発見したのは“理研”」と報道されました。他にもロシアの研究グループが見つけているようで、どちらに命名権が行くか、ということが争点になっているようでした。もし“理研”が命名権を獲得すれば、「ジャポニウム」とつけられるようです。確かに元素表をよく見て見ると「ゲルマニウム(ドイツ)」とか「フランシウム(フランス)」「ポロニウム(ポーランド)」「アメリシウム(アメリカ)」など、国名由来のものもあるのですね。他に「カリホルニウム(カリフォルニア)」なんて地域名のものもあって、おもしろいなと感じました。
 未だ誰も発見していないものが見つかると、それには名前を付けることになります。動物なんかも新種が発見されれば発見者が名前を付けますし、天体なんかでもアマチュア研究家が彗星などを見つけて名前を付けるというニュースもたまにありますね。ペットを飼い始めた時、すぐ名前を付けないと、適当に呼んでる名前で定着しちゃったりすることもあるようです。名前を付けないと呼ぶことが出来ない、認識することが出来ないですよね。たまに物の名前や人の名前が出て来なくて「あれ」「それ」とか「あの人」「この人」とか言っても通じないなんて経験をしたことがありませんか。モノやヒトに名前を付けるということは、それをこの世に存在させる大事な儀式です。そしてまた“名前を呼ぶ”ことも大切なことです。
 小林製薬という会社はみなさんご存じだと思います。あの会社の製品のネーミングってすごいですよね。「熱さまシート」とか「ケシミン」とか「キズアワワ」とか、一度聞けば覚えるし、何に使うかすぐわかる。そして誰でも読める。「名は体を表す」なんてことわざもありますが、まさにその通りだと思います。しかも覚えてもらえれば何度も呼んでもらえるわけですから、それだけでもすごいことだと思います。名前というのは呼べば呼ぶほど親しみの出るものですから。
 イエスさまは8日目に“イエス”と名付けられたわけですが、考えてみれば当然、生まれた時は名前がついていませんね。遅れてきただろう博士はともかくとして、羊飼いたちは何て呼んでたんだろうと考えると不思議ですね。「イエスさま」が「イエスさま」になったのは、実は今日からであり、それが1年の最初の日だということはとても大切な事なのではないかと思います。神社の初もうでと同じくらい、この主イエス命名の日・元旦礼拝も大切にしなくてはならない意義があるのではないかと感じます。なぜなら、わたしたちがいつも親しみを持って呼びかける「イエス」という名前の始まりが今日だからです。
 「名前」は呼ばれるために付けられます。名前を知るということは、その人や物に呼びかけることが出来る、しかも特別に呼びかけることが出来るということです。でも、わたしたちは生活の中でイエスの名前を呼ぶことの回数がそれほど多くないことに気が付きます。そう、朝晩の祈りの言葉はともかく、それ以外で呼びかけることって少ないですよね。わたしはもっと、イエスの名を呼ばなくてはならないと自分に対して感じています。名前というのは呼べば呼ぶほど親しみを感じるものだからです。そしてイエスの名前の意味「主はわが救い」を、名前を呼ぶことによって豊かに感じることが出来るからです。
 新しい一年が始まります。どうぞ新しい1年は、イエスの名前をたくさん呼び、わたしたちの生活の中でイエスさまを豊かに感じましょう。あけまして、おめでとうございます。

12/27

12/27 闇を抱えて      ヨハネ1:1~18

 世の光であるイエスの降誕日から2日が過ぎました。先ほど読まれた聖書はヨハネによる福音書から冒頭の部分です。光が暗闇の中で輝き、そして人間を照らす光となる、とその一番初めに記されています。
 創世記の初め、神は「光あれ」と言い、光が生まれます。それ以前はどうかと言うと“闇”しかないのですね。「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されています。そして、神の言葉によって闇の中から光が生まれます。つまり、光は闇から生まれ、初めから闇と共にあったとも言えます。
 そもそも、光がとてもきれいに映るのは、周囲が暗くなり、闇の帳が降りてからですよね。クリスマスのイルミネーションも明るいところで見たらよく見えませんし、舞台を見る時も、舞台だけが明るくて、舞台の周りが暗くなっていないと案外見づらいものです。ろうそくの光も、こうやって明るい中だとよくわかりませんが、イブ礼拝の時のように暗くすると、その力がはっきりと見えます。光は闇と共にある方が輝いて見えるものです。
 わたしたちは光を求めます。自分がきれいであることを願います。でも、イエスさまならともかく、人は誰しも心の中に“闇”の部分を抱えています。何かの事件が起こって、その背景をニュースなどで聞く時、“犯人の心の闇”なんて表現の仕方をしますが、その“闇”は誰もが持っているものです。光だけの人間などいません。
 暗闇の中で輝く光、イエス・キリストは、多くの人を照らします。そして、その光によってわたしたち自身も世の光となり、周りを照らします。しかし、どうしてもできない部分がある。イエスさまのようにはなれない。どうしても闇が残ってしまう。と悩むこともあります。しかし、わたしはそれでいいのだろうと思うのです。確かに人の中には必ず闇の部分があり、それがあるからこそ、自分自身の光を豊かに輝かせることもできるのだと思うのです。闇の部分は光を理解しない・できないのかもしれない。しかし、光はその闇を、闇のまま包み込むことが出来ます。むしろ、闇の部分があることを恥じるのではなく、闇を抱えながらも、なお光と共にあろうとすること、光に照らされようと望むこと、それこそが、イエス・キリストをこの世に遣わした神さまの望むことではなかろうかと思うのです。初めは闇の部分だらけかもしれませんが、自分の中に宿った光の部分を強め、また闇も完全に消すのではなく、闇を抱えて共にあろうとすること。それも、キリスト者としての大切な生き方だと思うのです。

12/25

12/25 地には平和、御心に適う人にあれ      ルカ2:1~20

 クリスマスおめでとうございます。今年のクリスマスはルカによる福音書から朗読をしました。マリアとヨセフの旅、そして羊飼いたちがやってくる、一般的によく知られているクリスマスらしい場面です。
 羊飼いたちは夜、野宿をしながら羊の番をしなくてはならなかった人たちです。現代の日本のように、定住して牧場を営んでいたわけではなく、草を探して移動する遊牧生活をしていた上に、今と違って羊を襲う獣も多くいましたから、羊たちがやられないように見張っていなくてはなりませんでした。しかも動物相手のことですから休みなんかありません。たとえ交代で休めたとしてもそれほど頻繁に休むわけにもいかなかったでしょう。「神殿に最後に行ったのはいつだったかなぁ」という状況だったのではないでしょうか。そこに天使たちが突然現れるのですから、驚き、そして恐れるのは当たり前のことです。わたしがその立場だったら“ああ、神殿に行っていないことを裁かれてしまうのかなぁ”と、考えてビビッていたと思います。もしかしたら逃げ出したかもしれません。しかし天使たちはおそれる羊飼いたちにイエスの誕生を告げ、そして天の大軍と共に言うのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」
 「いと高きところには栄光、神にあれ」と聞いても、まぁそうだよな。神さまの栄光が豊かに輝いた方がいいよな。と大体の人が考えると思います。でもその次の「地には平和、御心に適う人にあれ」と聞くとちょっと不安になったりしませんか。「御心に適う人って誰だろう」「もしかして自分はふさわしくないんじゃないだろうか」と考えても不思議ではありません。羊飼いたちは神殿に行ったことがなかったかもしれません。当然安息日に会堂に行くことも難しかったでしょう。羊飼いたちにとっても神殿に行くことや律法を守ることが基準ならば、自らあきらめてしまうかもしれませんね。“わたしはふさわしくないよ”って。
 でも、羊飼いたちには「さあ、ベツレヘムへ行こう」と出発することにしました。よくよく読んでみると「行きなさい」と命じられたわけではありません。「あなたがたは(行けば)見るだろう」、そして「これがあなたがたへのしるしである」と告げられただけです。彼らはその言葉に導かれて出かけていき、そしてマリアとヨセフ、そして幼子イエスに出会いました。彼らにもたらされた「良い知らせ」を、本当に確かめることが出来たのです。
 もちろんこのような知らせはあちこちでなされていたのではないかと思います。しかし、多くの人は夜は眠っています。本来なら起きていない時間に起きている人に、このイエス誕生という「良い知らせ」が、もたらされたのです。本来、夜は眠るものですし、律法を守ろうとしたら夜は休まなくてはいけません。しかし。一見「御心に適わない」と思われているところに、イエス誕生の良い知らせが最初にもたらされたのなら、それは「とても御心に適った」ことだったのでしょう。現代においてイエスの再臨の良い知らせがもたらされるとしたら、もしかしたらその場所は、それを聞く人々は、誰もが「ふさわしくない」と思う場所であり、人々であるのではないかと思います。神さまの御心は、すべての人が「御心に適う」状態になることです。だからこそ、もっともふさわしくないと思われるところに、神さまの知らせがもたらされるのです。
 今日はクリスマスです。世界中のすべての人の所に、イエス誕生の良い知らせがもたらされるように、また今日悲しんでいる人、苦しんでいる人のところにこそ、この喜ばしい知らせがあり、平和が、平安があることを祈っています。

12/20

12/20 聖なるあいさつ      ルカ1:39~45

 先ほど読まれた聖書は、妊娠中のマリアが自分の親戚であるエリサベトを訪ねた時のお話です。あいさつの言葉を聞いたおなかの赤ちゃんが踊る、そんな場面です。
 わたしは残念ながら経験することはできませんが、妊娠も後期になるとおなかの中の子どもが動く、蹴ったりする、なんて話を聞いたことがあります。また、胎教なんて言って、実はおなかの中の子どもは音が聞こえているから、いい音楽を聞かせた方がいいし、話しかけるとよいなんて話もあります。もちろん、どこまでそれが効果的なのかはともかくとして、何らかの反応があるものなのだそうですね。
 イエスの使っていた言葉、ヘブライ語のあいさつの言葉は「シャローム」と言います。「おはよう」も「シャローム」、「こんにちは」も「こんばんは」も「シャローム」。とにかく人と人があったら「シャローム」と言葉を交わします。「シャローム」を日本語に直すと「平和」「平安」という意味になります。「あなたがたに平和があるように」とか「平安があるように」ってところどころ聖書に出てきますが、あれもこの「シャローム」なんですね。またこれから礼拝の中で「平和のあいさつ」をします。「主の平和」とお互いに言うわけですが、これも「シャローム」ですね。ヘブライ語のあいさつの言葉はお互いの平和を祈り合う、これからの行く道が平安であるように祝福しあうものなのです。イエスの話していたヘブライ語に限らずあいさつの言葉はどの国の言葉でも、互いに祝福しあう言葉になっています。マリアがエリサベトにかけたあいさつも「シャローム」だったでしょう。そして、その祝福の言葉は、胎内の子どもが踊るほどの力があり、あいさつを受けたエリサベトも聖霊に満たされます。もちろんマリアの胎内にイエスがいたということも関係があるでしょう。しかし、マリアだけが特別なのではありません。わたしたちが何の気なしにしているあいさつには、実はこのような力があります。あいさつによって相手に対して送った祝福というのは、そのくらいの力があるのです。その逆もまた然りなのですけれども。
 あいさつは祝福し合うものであるはずなのですが、最近はちょっと変わってきていますよね。近所の人同士あいさつをすることって少なくなりましたし、場合によっては声をかけたら通報されてしまいます。しかしそれでもなお、今ここにいるわたしたちは、お互いにあいさつを送り合う者でありたい、祝福し合う者でありたいと思います。日常のあいさつ「おはよう」や「こんばんは」だけでなく、今日のような特別の日のあいさつも祝福の力を持っています。「メリークリスマス」「クリスマスおめでとう」と呼び交わす時、みなさんも今日から少し“特別な”気持ちを込めていただきたいと思います。また、普段のあいさつでも、相手の平安を祈る気持ちであってほしいと思います。このあと「平和のあいさつ」が行われます。「主の平和」「メリークリスマス」と、お互いに豊かな祝福を与え合うクリスマスのひと時になればと思います。

12/13

12/13 悔い改めにふさわしい実    ルカ3:7~13

 洗礼者ヨハネの話が続きます。ヨハネは人々に厳しい言葉を投げかけます。自ら荒れ野に行き、厳しい生活をしているヨハネですから、みんなヨハネの言葉を聞こうとします。
ユダヤの人々にとって、この時代はしんどい時代でした。自分たちの国が無くなり、約束されたメシア(救い主)は来ず、預言者も現れなくなって久しい。ローマから解放されることを望みながらも、なかなか思う通りにならない、停滞感のある時代です。「ヨハネの洗礼を受ければ救われる、大丈夫」と思った人々はヨハネの所に殺到します。普通の生活をしていたら近寄りもしない荒れ野に、みんなが出ていきます。しかし、ヨハネは厳しい言葉を人々にかけます。「悔い改めにふさわしい実を結べ」
 「成果」という言葉に「果実」の「果」が入っているように、様々なものや事の結果はよく「果実」に譬えられます。行いの「実」、言葉の「実」、など様々です。うまく行ったときは、おいしい「果実」が収穫できたわけですね。もちろん、実際の収穫ではいい実ばかりができるとは限りません。野菜でも米でも果物でも、どうしてもうまくいかないものが出てきます。虫に食われちゃうこともあるし、途中で腐れるものもある。なんか大きくならないものもある。「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」とも言われる通り、上手くいかない場合の原因は本当に様々です。
 ヨハネは「悔い改めにふさわしい実」を結ぶように呼びかけます。では、その「実」とはどういう実なのでしょうか。ヨハネは今回、様々な人に対してアドバイスをしています。「分けてやりなさい」「規定以上に取るな」、そして今回は読まれていませんが「自分の与えられたもので満足せよ」ということです。これを読み解いていくと、「自分の身の丈以上に受けていると感じたのなら、分かち合いなさい」ということになるでしょうか。規定以上に取らず、もし余ったのなら分けてやる、そしてその基準は自分に十分かどうか(自分で判断するのではなく他人がする。与えられるモノの額は自分が決めるものではない)ということなのだと思います。わたしたち人間は簡単に不足を感じる生き物ですが、今与えられているもので十分だと受け入れるという姿勢は大事だと思います。そして、その中で人に分かち合うのです。そして、自分が分け与えるということは、自分も当然また“受ける”ことがあるということです。「あれが足りない」「これが足りない」ではなく、「もうたくさんいただいているから分けましょう」ということ。そして、分けることを批判するのではなく、拒否するのでもなく受け、そしてまた与えることです。そうやって与えて受け、与えて受けと続けているうちに、わたしたちの結ぶ実が大きくなるのではないでしょうか。植物が共生という仕方で自ら栄養を採って大きくなって実を結ぶように、わたしたちも「悔い改めにふさわしい実」を結ぶよう、励んでまいりましょう。

12/6

12/6 曲がりくねったまっすぐな道    ルカ3:1~6

 今日の福音書はルカによる福音書から洗礼者ヨハネについての話です。洗礼者ヨハネは“荒れ野で叫ぶ者の声”とも呼ばれ、荒れ野で生活しながら悔い改めの洗礼を行っていた人物であり、一説にはイエスの師匠であったとも伝えられる人物です。“荒れ野で叫ぶ者の声”と呼ばれる元となったイザヤの言葉が、今日の福音書では語られます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」
 わたしは内地の出身ですが、北海道のほとんどの町でびっくりすることは、驚くほど道がまっすぐに区切られていることです。苫小牧でもそうですが、多少ごちゃごちゃしたところはあったとしても、全体的には非常にまっすぐに計画されて町がつくられている。北海道を開拓して町を作っていった人たちは、文字通り「荒れ野に道をまっすぐに通した」のですね。その苦労はいかばかりだっただろうかと思いをはせます。
 でも、最初から計画したならともかく、自然発生的にできた道を、後からまっすぐにするというのは並大抵の苦労でできることではありません。都市計画の「区画整理」なんて言ってやったとしてもなかなかできないのが現状です。京都は都として計画して建てられましたが、東京の下町なんかはごちゃごちゃして曲がりくねった道ばかりですし、下手すれば車が入れないような道もいまだに残っています。旅行などに行ったとき、町のちょっとした路地や、曲がりくねった道を歩いていて思うことがあります。それは、その道路は必然的に、何か理由があって曲がっているのだろうということです。傍から見れば曲がっていて不便じゃないかと思うのですが、見た目がまっすぐでないのには何らかの理由があるものです。
 日本では古来より様々なものを“道”に譬えてきました。書道、柔道、剣道、茶道・・・etc. 時にわたしたちの人生をも道に譬えることがあります。わたしたちの人生を振り返ってみて、どうでしょう、みなさん“まっすぐだった”と思いますか? 思い通りでしたか、計画通りでしたか。少なくとも自分の道を振り返るのなら、どう考えてもまっすぐだとは思われません。なんでもここで牧師をやってるんだかいまだにわからないくらいですから。
 “曲がった道をまっすぐにする”と言うと、何か工事でもしてまっすぐにすることを真っ先に思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、最近そう思わなくなりました。わたしたちの道もそうですが、道という道は、曲がりくねっているからこそまっすぐなのではないでしょうか。禅問答のようになってきましたが、傍目には曲がっているように見えながら、今の自分の所にまっすぐにつながっているからです。自分で苦労しながら通れる場所を通って、まっすぐに今に繋がっている道なのです。わたしにはそのように思えるのです。そして、わたしたちが後ろを振り返って見た道は、前を向けば神さまの方に繋がっています。曲がっているように見えますが、自分に通れるところを通って、まっすぐ神さまの元に繋がっているはずです。荒れ野で叫ぶ声は、その道のことを示してくれたのではないか、そしてわたしたちが曲がっているけどまっすぐなその道を歩く時、そこに神さまが見えてくるのだと思います。

11/29

11/29 身を起こして頭を上げよ       ルカ21:25~31

教会の新しい一年が始まりました。アドベント・クランツも最初の一本が灯り、クリスマスの準備の始まりを告げています。降臨節はクリスマスの準備の期間です。クリスマスは、イエスがこの世に最初にやってきたときのこと。だからなのか、今日の聖書はすべて、イエスが再びこの世に来られるときのことを、世の終わりのことを示す箇所が読まれています。
 先週も黙示録が読まれ、「世の終わり」についての話が続いていますね。世界の終わりと聞くと、どうもおどろおどろしい、恐怖に満ちた印象は避けられません。黙示録もそうですし、ダニエル書などの預言書に入っている言葉も、天地が揺り動かされたり、海がどよめいたりと、何か恐ろしいことが起ころうとしているような描写で、逃げなさいというような書き方もされています。でも、先ほど読みましたルカによる福音書では、わたしたちに対して「身を起こして頭を上げなさい」と勧められています。
 人間、しんどいことがあったり疲れて来たり、何か希望が見いだせなくなったりした時、どうしても自然と頭が下がって下を向いてしまうものです。当たり前のことです。頭では分かっていても気持ちがついてこない、なんてこともありますよね。そんな中で“頭を上げなさい”と言われてもなかなか難しいでしょう。どうしても落ち込んでしまってなかなか気分が上がらないということは、誰にでもあることです。今日の聖書に書かれているような世の終わりなんてまさにそうですよね。ああ、全部終わりなんだな・・・、と思ったらどうしても下を見てしまうと思います。もちろん“自分の生きている間には来ないさ”と思うこともできます。しかし、イエスはいつも様々な場面で「目を覚ましていなさい」とか「気をつけていなさい」と言い残していますから、楽かもしれませんが“考えない”ということはありえないでしょう。
 「メメント・モリ」という言葉があります。「死を記憶せよ」などと訳されますが、“自分が必ず死ぬということを忘れない”“人生は死と隣り合わせである”ということを意識するための警句として使われています。イエスの「目を覚ましていなさい」という言葉も、これと同じことです。“終末”は“死”とつながります。“終末”や“死”はわたしたちにとって恐ろしいもののように感じられますが、イエスは「身を起こして頭を上げよ」と語るのです。恐ろしいものとして対峙するのではなく、もしくはただ敗れるのではなく、寄り添いながら共にあるのではないか。わたしたちはいつも“終末”と隣り合わせでいながら、彼らと頭を上げて向き合っていくのではないか。だからこそ“身を起こして頭を上げる”ことが出来るのだと思います。
 降臨節は始まり、最初のろうそくは灯されました。クリスマスに向け、短い準備の期間ですが、来たるべき終末と共に、身を起こして頭を上げ、歩み出していきましょう。

11/22

11/22 イエスの国に近づいて        ヨハネ18:31~37

 B年も今日で終わり、来週からいよいよ降臨節に入り、聖書日課もC年に変わります。今日の福音書は、ヨハネによる福音書から、イエスが捕らえられてピラトによって尋問を受ける場面です。イエスは「王なのか」と問われますが、「自分の国はこの世に属していない」、そして「わたしは真理について証をするために来た」と答えます。これを聞いたピラトはさぞや面食らったことだろうと思います。
 イエスは自分で自分のことを「王」だと言ったことは一度もありません。周りが勝手に呼んでいるだけです。みなさんは「王様」と聞いて、どんなイメージを持つでしょうか。国の支配者であり、権威があり、金も持っている。命令で多くの部下を動かす為政者、というのが一番わかりやすい当時の王のイメージと姿です。でも、捕らえられたイエスは、あまりにみすぼらしく、また動かす部下もいない状態ですから、「王」という言葉の持つイメージからはかけ離れています。イエスは自分の国を「この世には属していない」と語ります。イエスの国は「天の国」です。イエスは復活後、天の自分の国に帰ります。
 イエスが自分の国である「天の国」に関して語ったことはあまり多くありません。いくつかのたとえ話と「天の国は近づいた」という言葉だけです。「近づいた」とイエスが口に出してから2000年余の年月が流れています。でも、一向に見える形になっているようには見えません。先日のフランスのテロもそうですが、戦争も一向になくなる気配がありません。もちろん、環境や生活に関しては、イエスの生きていた時代よりも格段にいいことは確かです。イエスさまが見たらびっくりしてしまうかもしれませんね。
 「天の国」は「近づいて」います。「近づく」と言った時、相手が近づいてくるのか、自分が近づいてくるのか、どちらの場合でも、現象としては「近づいて」います。どちらが動いているかに関わらず、お互いの距離は縮まっています。「天の国」はイエスがわたしたちの方に近づけて下さっていますが、わたしたちもまた、「天の国」に近づいているようでありたいと願います。イエスはわたしたちに「真理」を証して、自分の国に帰りました。その「真理」はわたしたちに託されています。
 わたしたちの所に、イエスの声が届いているはずです。そして、わたしたちはその声を聞くことが出来るはずです。もしかしたら様々なものに覆われて、聞こえなくなってしまっているかもしれませんが、わたしたちは確かに、その声を一度は聞いているはずです。でなければここにいませんから。そして、イエスの声が聞こえたら、わたしたちの世界を、「神の国」に近づけるための歩みを再開しましょう。大丈夫、わたしたちにはイエスがついていますから。